自家発電はできないしね。
闇は去らずとも道に迷わず。
完璧な人になるのではなく、不完全さを受け入れられる人格になる。
苦しみは、無くなればそれに越したことはありませんが、無くならないのであれば、苦しみの内実が明らかになることが重要です。
”苦しみの内実が明らかになる”それはわたしに闇があることが明らかになることです。
西原祐治
去年の今頃は大阪で学生時代の仲間たちと泊りがけでどんちゃんやっていた。
1月末には和歌山の新宮に行けるぅ〜〜〜!なんて、なんの危機感もなく生活をしていた。
そんな生活ができることを、一応は喜んでいたし、幹事には感謝してはいたけど、そこに参加ができる自分は当たり前だった。
いや、メンツに加えていただけるのが当たり前というのではなく、健康的不安とかそうした自分自身の体の不安がなかったってこと。
いまはちょいとだけ違うよね。
やっぱ、どこかで不安があるとおもう。
ま、思う、ってくらいなんだけど。
11月に栃木〜福島を一泊二日の研修で訪れたし、毎月、会議やなんやかんやで結局は食事に出たり、飲みに出たりしているし、仕事がらいろいろへと出まくっている。
だから、いい意味で、慣れてはきているが、それでもどこかに不安がある気はする。
緊張している。
でも、こういう状況にならないでも、コロナとかインフルとかが流行ろうが流行るまいが、わたしが背負っている生は死と共にあり、そこまでの過程には老も病もある。
生まれてからずっと緊張していてもおかしくない。
いや、むしろ、これまでこうした緊張感がなかったほうがおかしかったのかもしれない。
コロナという光が、わたしの生を照らし、死を、老いを、弱さに気付かせてくれたことは紛いもない事実だ。
死を受け止められない、老いをなんとかしたい、病は乗り越えられる、そんなわたしにとっては「生」すらも闇であるようだ。
老・病・死を受け入れられたら、「生」の自家発電になんのかな?
それはなってみんことにはわからない。
でもさ、わたしにとっては、コロナも怖いかもだけど、いまの日本の社会、政治・司法・報道・民意ってもんのほうが、正直言って怖いんだよね。
いつでも北朝鮮になれるし、いつでも香港になれる。
それを望んでいるかのような民意ってのが一番怖い。
闇だよ、いまの日本は。
ま、こんなことを書き並べている時点で、わたしの中の危機感は希薄でもあるな、って。
この、「note」を書くようになって、ひとつ良かったなっていうのは、毎回だけど、自分の言い分に疑問や否定が自ら湧き出てくる。
書けば書くほど、矛盾が湧き出てくる。
そこに気付かせてくれている。
だから、続いているのかもしれないな。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?