ワクワクは「5m圏内」らしい。
自己自身を否定することによって、真の自己を見出すのである。我々が斯く自己自身の根柢において自己矛盾に撞着するというも、自己自身によるのでなく絶対の呼声でなければならない。
自己自身によって自己否定はできない。
我々は何処までも超越的なる一者に対することによって、真の人格となるのである。
西田幾多郎
毎日のなかに不思議がいっぱいある。
その不思議が実はわたしへの自身をちゃんとみてみろという呼び声なのかな。
気づきというものは、その対象への気付きだけではなく、そこに思いもよらなかった自分、わからない、知らない自分への出遇いもくれる。
だから、不思議に気づく眼は、わたしの生活を面白く、充実したものにしてくれる。
作事たまたま観たドラマのテーマは「自分の5m圏内にたくさんお不思議が在る」というもので、そうした観点から物を見ると、一つの事象も、様々な見え方が在るということに気づき、違う意味があることにも気付ける、わたしの見方(第一印象)だけではなく、多種多様な事柄が絡んで事象は起きていることにも気付ける、そんなことを気付かせてくれるドラマだった。
一つの事象も、表面から観て終わりではなく、深層を探れば、そこには様々な習慣や社会情勢や歴史なんかが入り乱れ、そこから見えてきたその一つの事象はまた違う様相を呈してくる。
それを見るか見ないかで、その事象によって学べ自らの反省とできるか、単なる俯瞰者として評論家で終えてしまうかが決まる。
今朝目にした所ジョージのブログで彼が語っている言葉も、自分の周りの不思議にもっと注視しろ、と言ってくれているような気がした。
「大きな目標ばかりに目がいっている。幸せや才能の芽は、そのへんにたくさん転がってるのに。みんな見えてないだけなんだよ。」
この言葉もにしろ、昨日目にしたドラマの中での「5m」圏内という言葉にしろ、決して距離的なことでもなければ、生活圏内だけを見ろということでもないと思う。
もっと、見落としがいっぱいあるということに気づき、そこに、まだまだ見えていない、わからない、学べることがわんさか在るんだな、と心躍らせてみなよ、という呼びかけのような気がする。
当り前にした瞬間に、面白くなくなるのに、わたしは何でも当り前にするようになってしまっている気がする。
これは現状に対して、「感謝して生きろ」「モンクは言うな」というような、おためごかし感謝祭に参加しろということではない。
当り前でない今をより深層まで味わうには、もっとスケベゴコロを働かせろというのかな、知りたがりであるのならっ徹底して知りたがれ、答えを知って終わるな、答えがなぜそうなのかを疑問に思え、その疑問を呼び起こす源はなんなのかまでも探れ、そんな感じではないかな。
わたしの場合は、結局の所は何もわからない、自らがなんでここにあるのか、なんで生きているのか、いま・ここ・わたしの根拠が全くわからず不可思議なんだという「絶対」を根底に持つことで、なんとかいまのところは「わからずや」であることができているきがする。。。いや、わからず屋だとは自分では思えないが、要所要所で「ほんとか?」と問われるような、そんなふうに物事を捉える癖をつけてもらえている。
自分のしていることもだが、人類が今躍起になってやっていることも、無駄ではないが、宇宙という規模からみれば、自然という世界からみれば、些細なことでしかない。
しかし、すべてのものが、すべての事象が、些細なことの集合体であるのであれば、この些細も一大事でも在る。
完全なる自己存在の肯定は、自己を否定するかのような大きな存在に依るところで初めて成る。
大きな存在というのは、国とか、権力者とか、賢い人間とか、そんなクソ小さいものでもない。
それを、神と呼ぼうが、宇宙と呼ぼうが、自然と呼ぼうが、仏陀と呼ぼうが、歴史と呼ぼうが、なんと呼ぼうがあまり関係ない。
つまり「ほんとうのところ」という感じだ。
わたしを完全否定するかのようなものが、実はわたしを完全肯定している。
それに気づくのは「5m」圏内を見る、そんな目のようだ。
まだまだものごとを俯瞰してばかりなのだな。
だって、なにかイベント的なことがないと、別段ワクワクしてないもん、普段は。
もう少し、日常を楽しまにゃなぁ。