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屁理屈で偽善なのはどっち。

どんな生命であろうと、その生命はそのものにとってかけがえがない。
どんな小さな生命であっても、その生命そのものにとっては、全世界と同じ重さの生命をもっている。

いかなる小さな生命であろうとも、その生命の重さは等しいということに立ちますとき、その生命を奪わなければ、我々は自分自身の生命が保てないということが、大きな矛盾として迫ってくる。

           宮城顗

一寸の虫にも五分の魂

僕らはみんな生きている
ミミズだってオケラだってアメンボだって
みんなみんな生きているんだ
友達なんだ

さぁ、どうだろう。

理屈、理念では頷けるかもしれないが、本当のところ、納得いっているのかな?

選びがないってことだよね、本当にうなずけていると言うなら、命に対しての。

選びあるっしょ。

自分の家族や友人の命と、赤の他人の命、どちらも同等に大事なんてことは言えないでしょ。
いや、言うことはできても、思うことはできても、同等に大事に扱うことはできないでしょ。

そこが矛盾なんだな。
わかっちゃいるけどやめられない、の世界なんだ。

で、こんな面倒くさいことを考えられるのは人間であればこそだ。

同じ大事な命なのに、選んじゃって、区別しちゃって、差別しちゃって、ランクを付けざるを得ない、そんな自分を情けなく、悲しく思えるって、人間だからこそなんだよね。

で、理念というか、「いのちの五分」ってのは、こりゃ、オレが否定をしたところで関係なく、総理大臣や大統領や天皇がたとえ「〇〇の命のほうが□□の命よりも尊い!」と宣言したとしても、「いのちの本当」からすればそんなもんは愚の骨頂であって、そんなの関係ねぇ❣オッパピー❣の世界なんだな。
だから、そこんとこは安心してもいい。
「いのちの五分」は無条件で決定している事実なんで、ある意味、無責任であってもいい。
「いのちの平等なんて偽善でしかない!」とかいう寝ぼけた思考の持ち主でなければ、無責任に「あらゆるいのちは尊いよ」と言ってもいい。

偽善なのは、わかったふりして自分の住んでいる社会の領域でしかものを測らず、その狭い了見で理屈をほざく、正義をぶる、そんな人間とそいつらが作っている社会だ。

つまり、現状のここが偽善なんだな。

わたし自身は偽善者だ。

でも、「いのちは五分」は偽善ではない。
だって、これはわたしが決めたことでも、どこかの誰かが決めたことでも、法律でもなく、真実〈本当〉のことだから。
この世界から人間というものが滅び一切いなく成ってとしても、100億年前でも、現在でも、100億年後でも変わらない真実〈本当〉だから。

安心していい。

社会的差別は現存する。

わたしの中にも差別は現存する。

でも、「いのち」そのものは差別はない。
なのに差別すっから、人間てのは矛盾していて、愚かで、バカなんだな。
そのくせ、賢ぶるから手に負えない。

どんなに頭が良くても、金も地位もある家に生まれ育っても、10人中9人からカッコいい・美人・ステキと言われるような憧れの存在であっても、必ず年も食うし、飯も食うし、排泄もするし、屁もこくし、風呂に一週間も入らなきゃ臭くなるし、鼻くそも耳くそも目やにも出るし、最後にゃちゃんと死ぬから、安心していていい。

存分に、この矛盾だらけの社会をより良くすることに没頭すればいい。
自分の生活を、精神面も含めて、豊かにすることに努めればいい。

それを目指せば、なにが豊かさなのか、そんな疑問にも出会っていける。

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