散髪
我々はいつも〝裁きの心〟をもって人と接する。
〝裁きの心〟とは、自分がもっている思いをもって、相手を切り刻むこと。
そういう裁きの心というものは、その人が生きたひとりの人間として生きていることを奪うことである。
その人がその人として生きている、その在り方を奪うことである。
宮城顗
ようやく髪を切りに行けた。
5ヶ月ぶりだ。
ソフトモヒカンというか、ベッカムヘアというか、そんくらいの長さからボブの一歩手前、あと二月頑張ればマッシュルームカットになれるかもくらいまで伸びていた。
普通、風呂上がりに髪をドライヤーで乾かして、2〜3分やっても乾かないとなると、面倒くさくなって髪を切りに行く。
それまでは、床屋にくのが面倒くさい、そっちのほうが勝っている。
で、もう2週間以上前から髪を乾かすのが面倒くさいが勝っていたのだが、タイミングがまったく合わずここまできてしまった。
昨夜、蒲団の中で、どうしよう?ここまできたのだからせっかくだから人生はじめてのロン毛に挑戦しようかしら♡、と一瞬心が揺れたが、やめておいた。
髪の毛を解かすのさえ面倒くさいと思う、寝癖を治すのさえ面倒くさいと思うようなやつのロン毛はよろしくないな、そう思ったので。
でも、一生の内で、一回は、ボクの髪が肩まで伸びた姿に成ってみたい気はしないでもない。
次、髪を切りに行くのはおそらく春の彼岸前あたりになると思う。
今回はさほど短くしなかったので、もしかしたら年明けくらいに一回行くかもしれない。
ま、さっぱりした。
目に髪が入らないだけでも気分が楽だ。
まったく関係のない話ではじめすぎてしまった。
ここまで打って、まったく繋がらない、「今日の言葉」と。
一切接点が見つからない。
が!それをむりくりくっつけるのだった。
裁きの心、だったな。
よし。
裁きの心は有る。
人を裁き、自らを知らず識らずのうちに裁く。
裁きの心ってのは、すなわち、差別心だ。
他を裁く心があるものにとって、最終的に一番許せないのは自分自身だ。
裁くよね。
たとえすべての人を許せる、そんな心持になれたとしても、自分のことは許せない。
裁く。
なんせ他人事じゃないから。
他人はいいのよ、最終的には。
歩けなくなろうが、走れなくなろうが、動けなくなろうが。
でも自分はがそんなふうになると許せない。
「あなたはそれで大丈夫。そういうこともあるよ、人間だものね。でもね、わたしはそうはいかないのよ。歩けないわけがないのよ、走れないわけがないのよ。だってわたしはわたしなんですもの」
こんな感じかな。
自己執着は自らを追い込む。
自分に甘いと言われる人間であろうが、いやたぶん、そんな人間ほど自己への執着が強いだけに、最終的に自らを許すことができない。
それが裁きの心のきついところだと思う。
ただ、いきすぎは良くないが、自らへ向けたこいつが無くなったら、それはそれで問題な気がする。
あまりにも自己執着がなくなると、今度は他をも見えなくなるから。
バランスと言うか、丁度いいができないんだよね、なかなか人間てやつは。
他を裁く心が見えたら、それをきっかけに自己を見つめる。
そんな練習はしておきたい。
なんも感じないで生きるのはつまらないし、オレはね。
で、今日髪を切ったのも、無理やり引っ付けると、裁きの心も少しあったわけよ。
これは、虚栄心というか、良く見られたというスケベゴコロというか、他から嫌われたくないという恐怖心というか、そんな外の目を異常に気にする心が、外の裁きの心を勝手に作り上げ、自分の中の裁きの心を揺り動かした。
それが、汚らしいしさっさと髪を切れ!、という声となり、今日、わたしを散髪屋に向かわせたのだろう。
ほらね、ちゃんとくっつけたでしょ😆
へ?
あまりにもこすっからい内容だって?
あ!自分の中の裁きの心が、わたしの今日の「note」をバッサリと切り刻む。
ま、いいじゃん。
髪切って、気分いいし。
そうそう、そういえば、半年近くぶりにとかに髪を切りに行くとさ、バッサバッサとすんげぇ切られるんだよね、結構な量の髪の毛が。
それが気持ちいいんだわさ。
切り刻むのが好きなのかなぁ。。。
そんなのを喜んでいるのって。
やばい。
ちょっと、もう少し、人と接するときの自分の言動を注視してみよう。
もしかしたら、とんでもなく切り刻もうとしているかも。
時には切り刻んでしまっているかも。
髪の切られる様をみて、自分に切り刻み好きな一面が有るかのかも、って、いま思い至った次第。