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ぼく ヒトだよ・・・とはいかないなぁ。
ナ マ コ まど・みちお
ナマコは だまっている
でも
「ぼく ナマコだよ」って
いってるみたい
ナマコの かたちで
いっしょうけんめいに・・・
今日で7月盆が明ける。
関東甲信越地方は梅雨も明けた。
夏だ。
暑いなぁ。
陽の光が眩しいなぁ。
暑かろうが、寒かろうが、金持ってようがなかろうが、地位が高かろうが低かろうが、賢かろうが賢くなかろうが、老若男女問わず、人間であろうがなかろうが、ただそこにあるだけで尊い。
みみずだって、おけらだって、あめんぼだって
尊い。
そこに立ってものを見るようにしないと、いつでも勘違いしたまんまで生きなければならない。
勘違いに気づくことができないで生きることは、空しい命を生きるだけのことだ。
空しい今を生きていることにすら気づかない。
知らなきゃ知らないほうが楽ってこともある。
そんな面倒くさいことを感じなきゃ、いちいち、自分の言動諸行に矛盾を感じるなんてことをしないでいられるなら、そのほうが楽でハッピーでいい!
それはそれでいい。
個人の自由だ。
でも、ただ人であるってだけに喜びを感じることも、なんか意味なく幸せってことも、無駄に楽しいなんてことも味わえないだけのことだ。
喜びも、幸せも、楽しみも、自分に感じるのではなく所有したものに対して感じるだけのことだ。
所有したものがなくなれば、ひたすら不幸のどん底に陥るだけのことだ。
ナマコはナマコであるという意志すらもないのかもしれない。
ただあるだけで幸せも不幸せもなく、今を生きているだけなのかもしれない。
でもそこに存在の本質的な大事があると思う。
それはみんな所有している。
わたしもあなたも。
だから、それを否定するような言動をしたときは素直に恥じ入ろう。
その恥は、自分自身の絶対肯定である。
存在に意味付けをし、その勝手な意味付けで否定をする。
そんな自分を恥じ入ることは、存在につけた意味を否定し、無意味の存在の大事を肯定すること、つまり、いつでもどこでも意味なくわたしは大事という、唯一無二、代わるものがいないわたしの大事を受け止めることでもあるんだ。
なまこはなまこ
りんごはりんご
わたしはカモメ。
いいえそうじゃない。
わたしは女優。
そ、そうよ!(清水邦夫 作「楽屋」より)
いいえそうじゃない。
わたしはわたし。