見出し画像

無限ループ

自己を時代において自覚するということは、自己の罪を時代の責任に転嫁することによって自己の罪を弁解することではない。
自己の罪を超越的根拠から理解することであり、かくして自己の罪をいよいよ深く自覚することである。

             三木清


最初に断っておくと、今日の言葉は、「自己責任」ということではない。
社会で生きていく以上は、社会の責任というものは必ずあり、社会はこのために出来得る限り差別なく働くものであらねばならない。

個が責任を負うことで社会に尽くさねばならないなどといことではない。

自己責任というのはどこまでいっても個人でできるという人間の傲慢でしか無い、というところに立った上で、自らの有り様を自覚することを言っている。

如何ともし難い「わたし」であることを受け止めるということだ。

なんぞ善行と言われるようなことをどれだけしたからって、帳消しにはならない、そんな自分を自覚するってことだ。

だめだ。

今日は、最高に気分が悪い。

如何ともし難い。

ちょいとなんかがあるだけで、一気に気分が悪くなる。

こんなんだな、所詮は。

さぁ、この気分の悪さ、ムカつき、苛立たしさ、いつ抜け出せるかだな。

こんな状態では自覚はできない。

できたとしても責任転嫁の自覚でしか無い。

内省をしても、内省をする自分を俯瞰している自分がいる。
その、他人事に自分を観ている自分を見つめることはできない。

自覚という作業そのものが、すでに自己を見失ている。

無自覚であることはできない。

つねに自覚はある。

自己の罪を自覚するということは、無限ループのように、ひたすら自己批判をしていくことであり、その行程のことなのだろう。

いまは自己肯定の方が強い。
怒りや憤りにある時は、自己肯定にあることも受け止めておく必要がある。

自己を絶対に否定・肯定することはできない。

あくまで、自分のなした、自分をなしている、一部をもって、否定したり肯定したりすることでしか無い。

否定するにしても肯定するにしても、否定した自己、肯定した自己を確認する作業を怠ってはならない。

今日から数日は、多分、そんな作業をいつもよりも多めにして過ごすことになるし、そう努める。

それやらないで、適当に流したら、適当な鬱屈した妥協での日々に突入するだけだ。

そいつはゴメンだし、それじゃあまりにも情けない。

ともかく、こんな状態なので、連絡をしようと思っていた数人への連絡はやめておこう。
それこそ、会ったりしたら、絡みだしそうだ😅

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集