主役はわたし。
個人において絶対の満足を与える者は自己の個人性の実現である。
個人性の発揮ということはその人の天賦境遇の如何に関せず誰にでもできることである。
いかなる人間でも皆各その顔の異なるように、他人の模倣のできない一あって二なき特色をもっているのである。
而してこの実現は各人に無上の満足を与え、また宇宙進化の上に欠くべからざる一員とならしむるのである。
西田幾多郎
ナンバーワンよりオンリーワン、ということでもない。
オンリーワンであることはナンバーワンでもある、ということでもない。
ワンフォアオール、オールフォーワン、というのともちと違う。
わたしはわたしであり、わたしは「ALL」である。
「ALL」の中にわたしはある。
「ALL」にわたしはいつでも不可欠な存在である。
つまり、わたしなくしてALLはなく、ALLなくしてわたしもない。
わたし(One)=ALL
雰囲気としか説明できないが、こんな感じかな、わたしの受け止めは。
で、そんなALLでもあるわたしは、今日もわたしの個人性には目もくれず、というか、そこにはまったく興味を抱くことができず、社会性だの、寺での立場だの、人間関係だの、状況における良し悪しだのに振り回されている。
つまり、人間として、人間らしく、めちゃくちゃ煩悩に沈殿している。
いちいちの目にする、耳にする状況に、わかりやすく喜怒哀楽を顕にし(表には見せないようにはしているがなるべく、自分の中ではめちゃくちゃ)、オレは情緒がめちゃくちゃ安定していないな、と感じ、こいつを少しでも表に出してしまったら社会的に、ご近所で、仲間内で、変なやつ、嫌な奴、キモいやつ、と思われてしまうのではとビビリ、感情を表に出さないように努めるという愚行を良しとして生活している。
個人性を大事にできればというのはあるが、本気ではそんな気にはなれていないようだ。
安定した精神状態であるよりも、好き嫌いがある、選びがある生活のほうが、そうした生活は怒りや虚しさややりきれなさに支配されがちだとわかってはいても、そちらを良しとしてしまう。
ま、煩悩ってやつだな、選んで、差別して、分別して、嫌いなもの、負の対象に対して、都合の良いものを作って喜んでいる世界を楽しいと思って生きている。
それでいいと思っている。
投げやりではない。
諦め着くほどちゃんと生き切ってもいない。
個人において絶対の満足を与える者は自己の個人性の実現である。
而してこの実現は各人に無上の満足を与え、また宇宙進化の上に欠くべからざる一員とならしむるのである。
これは、自分で証明するとか、努力して手にする、そうしたものではない。
個人性の発揮ということはその人の天賦境遇の如何に関せず誰にでもできることである。
いかなる人間でも皆各その顔の異なるように、他人の模倣のできない一あって二なき特色をもっているのである。
と、あるように、決定事項である。
何も一切関係なく、誰でもが、すでにそこにいる。
誰かに与えられるものでもなければ、自ら手にするものでもなく、事実でしかない。
だから、こうしたコトバをたまに読むなり聞くなりして、そうなんだぁ、と、なんとなく受け止めればいい。
すくなくとも、わたしの人生において、わたしは成りたくても脇役にはなれない。
どんだけ名バイプレヤーにあこがれてみても、何人もの他者の人生においては最高のバイプレイヤーであれても、そんな資質を持った人間であっても、自分の人生では脇には回れない。
芯を取らなければならない。