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復活!!!

私たちの人生の争いは、
いつも善と善との争いである。
善と悪との争いではない。
お互いに自分の善を固執することから、
争いがとめどもなくおこるのです。
「私の方が正しかったのだ」と、
そこでいよいよ我執をつのらせる。
         宮城顗

どうやらピークを乗り切ったようだ。
昨日は暑さと湿気、そして仕事でフルボッコ状態にされた。
そして今日は体力が、何よりも気力が上がってきた。
外を歩いていても
「暑いぜぇ!くそ〜、やるぜよ!」
と、うそぶける。
昨日のように
「もういや。。。もうだめ。。。」
とはならない。
ここまで持ってくれば今年の夏も乗り切れる。

夏?
暦の上では秋だし。

秋だろうが夏だろうが
明日は関東圏でも今年一番の暑さが予想されている。
練馬は38度予想らしい。
でも大丈夫、ピーク超えたし!

こんなときに思う。
ほんと気の持ちようでえらく違うね、と。
こんなときだけ。
うまくいっているときだけ😅

いいかげんなもんだ。
昨日なんて、気の持ちようなんてまったく思えなかったし、ヒトに言われたら「ウッセェ〜!!!」といいそうだった。
調子のいいときだけだよ
気の持ちようなんて余裕かませるのは。

だいたい
「気」自体がいいかげんなものだし。
昨日は聞き流せても、今日は聞き流せない。
ちょっと条件が変わるだけで、気はコロコロ変わる。
ホントいいかげんなもんだ。

嫌いな奴が、自分のことを思って言ってくれただろう一言も、「お前だけには言われたかねぇ」と跳ね除け、怒るが、好きな人に同じことを言われたら、感謝感激で涙ながらに礼を言う。
そんなこと、普通にある。
かと思ったら、好きな人に言われたことだが、その時の体調や環境によっては「お前だけはそういうことを言わない、俺のことを分かってくれていると思っていた」なんて落ち込んで、嫌いなやつに言われる以上に怒り、恨みに思い出したりもする。

なんのことはない
「気」なんてもん、あまり信用しないほうがいい。
そこまで凄いもんでもない。

気の持ちよう、なんて余裕かませる時の「気」には特にご用心だ。
その「気」は「正義」「正解」でありがち。
「正義」「正解」のときには周りも相手もなにも見えていない。
自分のことなんぞ見えようはずもない。

てことで
本日、ちょいと気力が上がっているので
気の持ちようだ!なんて思っている自分にいいたい。

「気力でどうにかなる歳じゃないんだぞ!」
「明日は体温超える気温になるんだから、調子乗るな!」
「お前は弱いんだから、素直になれ。辛いです。暑いの無理です。と言え!」

ここで自分に警告させてもらった😅

正義に立ったら終わり。
正義はない。
でも、なにかするとき人は必ず「自分の正義」に立つ。
「自分の正義」は人間にとって、何かをする時の理由づけだから。
他人に命令されて何かをするときでも、一度自分の内に納め、自分を言い聞かす正義を造り上げ、それによってようやく人は何かができる。
悲しいかな「正義」なくして人間は基本行動は起こせない。
だからこそ「正義」を疑わなければならない。

極論かもしれないが
「正義」は最終的には誰の理解も必要としない。
自分だけがわかっていればいいこと。
だから危ない。

自分に正義が少しでも垣間見えたら
焦れ。狼狽えろ。その正義から逃げろ。

今この文章を打っている自分にも「正義」が見える。

矛盾だらけだ。

まだ暑い日は続く。
まだ新型コロナ禍も続く。

だから
「気の持ちようでどうにかなる」という「正義」は捨てずにおこう、今は。
明日の猛暑で手放させられるかもしれないが。
でも、今は敢えてそっと自分だけに言い聞かせよう
「今のお前にとってはその正義だけは正解だ」と。

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