いれない。
いる 谷川俊太郎
ぼくはしてる
なにかをしてる
でもそれよりまえにぼくはいる
ここにいる
ねむっていてもぼくはいる
ぼんやりしててもぼくはいる
なにもしてなくたってぼくはいる どこかに
きはたってるだけでなにもしてない
さかなはおよいでるだけでなにもしてない
こどもはあそんでるだけでなにもしてない
でもみんないきて「いる」
だれかがどこかにいるのっていいね
たとえとおくにはなれていても
いるんだ いてくれてるんだ
とおもうだけでたのしくなる
コーティングに出していた車が戻ってきた。
4日ぶりに運転しているとご機嫌だ。
車の運転が好きなんだな、と改めて思う。
そんな事あるわけないのに、足回りも良くなって、静粛性も増して、オーディオの音も良くなったように思えてしまう。
ご機嫌は麗しいのが自分でも解る。
走っていてトロ臭い車にも苛つかない。
ウィンカーの遅い車にも苛つかない。
渋滞を巻き起こしている路上駐車の車にも苛つかない。
前が詰まっているのに後ろからオラオラしてくる車にも苛つかない。
凄いな「ご機嫌」てやつは。
いつもご機嫌であればいいのにな。
基本、短気で、いらちだ。
そう心がけているのだけれど、そうはいかないのだな。
でも今日は、非常にご機嫌だ。
だから今日も素直に言ってしまおう。
「いる」はとてもいい。
「いる」だけでいい、はとても良く解る。
解るけど、納得はしていない。
らしい。
ただそこにいられたらたまったもんじゃない。
「いる」ならなにかしろよ!
と、思って苛ついてしまう。
寝るでも、歌を唄うでも、なんでもいからなんかしてくれ。
ただいられるってのは、一番の苦痛だ。
プレッシャーいがいのなにものでもない。
自信がないんだな。
だから、自分自身が「いる」でいられない。
会議で誰もなにも言わないでいると耐えられなくなって、言わなくてもいいのに、いうことが別に無くてどうでもいいことをいう。
で、ひんしゅくを買う。
沈黙が怖い。
お客さんと面と向かう。
人見知りのくせに、その場を、沈黙をどうにかしたくて意味のないことをくっちゃべる。
ひんしゅくを買う。
沈黙が怖い。
だから
「いる」は理論では解るが、納得はできないと思う、一生。
「いる」の世界に誰よりも憧れながら、「いる」の世界にいることを拒む。
いられないからこそ「いる」はわたしにとっては本当に大事。
「いる」でいけたら、もう少しご機嫌が多い生活を過ごせるのだろうな。
でも、無理なものは無理。
だから
「いる」の世界の住民やたまにだけど行って羽根を伸ばしているような人をみると、最近、とても救われた気分に、少しだけご機嫌のお裾分けをしてもらえる。
ルートは違うけど、今日は、運転ができたというご機嫌で、「いる」を許せる気分が少しだけあるようだ。
ただ、これも「ようだ」でしかない。
なぜなら、いまわたしは一人で部屋にいるので確かめようもない。
ここに誰かがきて「いる」をやられたら、一瞬にしてご機嫌を手放すかもしれない。
帰りの車はご機嫌どころか、ムカつきイラつき怒鳴りまくりのわたしに戻っているかもしれない。
でも、そういえば、きのうの「note」に書いたとおり、「いる」の大事をわたしは大学時代の友人たちに教えてもらっていたんだな。
あいつら本当に、毎日「いた」し。
さ、車を走らせに行ってこよう。
家に帰るだけだけど。
家には誰も「いない」。
でも帰ればわたしが「いる」。
家に帰らなくても、わたしはいる。
人間に限定しなければ、家にはなにかしら「いる」、虫とか。
「いる」は人間が滅びたとしても在り続ける。
「いる」、やっぱいいなぁ。
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