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響かぬものでも語らねば

2024/11/06

近日、家族会での講演が控えている。わたしの役割はヒューマンライブラリーを家族会に集うひとびとに話すこと。いただいた仕事とはいえ、わたしじゃないほうがいいのでは、となんども思いながら7500文字の原稿を新たに完成させた。

基本的に墨染は「子孝行しなかった親に親孝行はしなくていい」「害なす親はすてればいい」という思想をもっているが、その思いは聴き手に対して侵襲的な内容になってしまう。

なんというか、成長したな、とおもった。数年前に家族会で講演をしたときはその侵襲性に気づいていながらも、当事者としての厳しい言葉をアグレッシブに伝えてしまった。相手の頭を打ち殴るような内容ではあったが、結果的にボスに頭をさげさせてしまったことが申し訳なかった。

職業柄なのか、だんだんと相手によりそう表現をみにつけて、アサーティブになったが、同時にまるくなってしまったな、ともおもう。個人としての当事者の声がまるくていいことなんて特にないが、一方で当事者会を運営する立ち場としては、ときにまるさは繋がりをつくるために必要だとも思う。

当事者性と社会性のどちらを優先するのか、そのアンビバレンスにたびたび悩まされる。つまるところ本音と建前をうまく使い分けねばならない。

今回の原稿は、求肥のようにやわらかい建前の言葉で、重苦しい本音をつつみこんでいるので、親たちにとって聴き心地のよいものではないだろう。

原稿に牙をうめこんでしまったぶん、質疑応答では相手に極力よりそったものでありたいとおもうが、優しい言葉は「なにもしない」という選択を肯定することにも繋がりかねない。

親亡き後の勉強会なんて腐るほど転がっている。どれだけ知識として頭にいれてもしまいには「じぶんが死ぬことなんて考えたくない」と言いだすんだからしかたない。なにもしないことは焦燥感に駆られるのか家族会という場所にはくる。専門家や当事者の意見を求める。だけどほとんどはとりいれない。マクロはともかく、大枠としてはなにもかわっていない。そのループがずっとつづいている。

家族会の実態調査

「入院させておきたい」の理由をみて現状は察するにあまりある。家族の人権は、もちろん重要だが、そこに当事者の人権は存在していないように思う。じぶんの手に負えないから病院から出したくない。じぶんが苦労したくないから、困るから、不安だから。どこまでも親主体にかんじる。

そりゃ親だって大変だろうが、入院させている相手が、じぶんとは違う人生をもつひとりのにんげんだっていうものの見方が欠けてやいないか。臭いものに蓋をするやりかたを過半数以上の親がしている。当事者のこどもを信頼しているとは到底おもえない。悲嘆にくれて心中をはかるよりは社会的保護に任せるのはいいのかもしれないが。

わたしの話をきいた彼らはまたひとつ言い訳を手にいれる。「あの子はじぶんで家事も仕事もできそうだからいいわよね」「若いからいいわよね」「行動力があるからいいわよね」「「「うちのこは〜」」」わかりきっている。

当事者発表は聴き手の言い訳探しの場になりうることをこの数年間の活動のなかで十分に感じてきた。ほしいのはじぶんより下の世界の物語と安心感と共感。成功談はなかなか響かない。リカバリーストーリーの展望文化とは相反する現状だとおもう。おもうが、にんげんのこころはそこまで純粋無垢にはできていない。この7500文字がどのように価値をもつのかわたしにはわからない。

それでも草の根レベルで語りつづけなければいけない。変わることはないと諦観してしまうことはあまりにも簡単だが、現状がかわっていくみこみがどれだけ少なくても地域福祉に従事している先達がすこしずつ切り開いてくれているこのみちを、まもっていかなければいけない。ひとりの当事者として、ひとりの地域福祉従事者として。語りの場をつくり、まもらなければならない。

たとえ大きな波紋にはならなくてもどこかに響くかもしれない。わずかな水面の揺らぎが現実のなにかをかえるかもしれない。そういう希望を松明のようにもちつづけなければならない。途方もないことだ。遠路はるばるきたみちをこれからも続けていくにはどれほどの胆力が必要になるのだろうか。

仕事においても活動においてもすこしずつ責任が大きくなってきた。多少なりとも積み重ねたキャリアや繋がりがある。数年もすれば若造という逃げみちもなくなる。牽引してくれた先達が引退すれば、その先を担う人材が必要になる。途絶えさせないために、わたしはちからを奮えるだろうか。

家族のことを語るのはわたしにとって毒を喰む行為だが、それでもこれがわたしの役割だ。ほんとうは、家族という大枠の存在を嫌わずにいたい。幸福な家族を知っていたらすこしは違っただろうに。

今回の語りは仲間がいることだけが助かっている。良好な家族関係で育った語り部がほかにいるので、聴き手はそれぞれのニーズにあわせたものを聴きにくる。消去法でなければのはなし。わたしの「逃げ出す自立」が聴きたいひとは、なにかそれにこころ惹かれる背景をもっているのだろうとおもう。

たったひとりでも、たったひとことでも、聴き手に残るものがあれば、わたしは役割を果たしたと言えるだろう。家族の概況調査も把握しつつ、牙をむきすぎずにやりきれるようがんばる。

原稿制作、おつかれ、わたし。

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