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物語とコミュニティの関係性

最近は専ら「物語,意味,情動,東洋思想」というキーワードを中心に、考えごとをすることが増えた。 元々は自分の生きる意味・目的を探すために行っていた物思いから始まって、いつの間にか関心領域だった「コミュニティ」に関する問いと混ざり、始まりだった「自らの生きる意味」を見つける必要性はなくなっているけど、今も「意味を与える」ということについて考えている。 もうそれに関して言えば、自分のためなのか、自分ではない誰かのためなのか分からない。 今日は何となく「コミュニティと物語の関係

    • noteを書くことを再定義する

      なぜnoteを書くのか 最近は自分のなかで投稿する意義がなくなりつつあり、Xでポストしたり、noteに投稿することが減ってしまった。 これまでXでポストしたり、noteを書いてきたのは、投稿することでその投稿を見たひとといつの日か会ったときに「最近〇〇してたね」とか「このまえのnoteに書いてた…」とか話題の種になればいいなと思っていた。 けど、最近は別にそんな話題の種なんか別になくてもいいなと感じ始めていて、別に話し始めるときに話題がなくたって、たとえ初めましてのひと

      • noteは「一気に書いて、公開しない」

        最近になり「noteはとりあえず書き切ったあと、すぐに公開せず寝かせた方がいいな」と感じるようになった。 これまで私はnoteを書く時に、撮って出しのドラマのようにとりあえず1,000文字ぐらい書き切ったらその達成感から満足して、全く読み返さず、まるで100m走を全力走りゴールテープを切るかのようにnote右上の「公開」ボタンを押し込んでいた。 この文章を読んで、他のひとがわかるかどうかとか、あとから自分が書いた時の心情を思い出せるかどうかはまるで気にすることなく「やったー

        • 探し求める出口

          最近、また「つくる」ということについて考え直している。 1ヶ月前のnoteでも同じように「つくる」について考えていたが、その当時の結論は「深く知ろう」としていくことで、自ずから結果的につくることになるんじゃないだろうか、という結論だった。 当時の自分はそれなりに納得感のある答えにたどり着けたと思った。ただ、それ以降も「つくる」に対する思案は頭から離れず、事あるごとに考え直してしまっている。 最近、Podcastで『超相対性理論』という番組を聴いており、そのなかで「ひとはなぜ

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        物語とコミュニティの関係性

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        記事

          表現することは自己理解につながる

          一昨日、ある成人発達理論に関するPodcastを聴いていたら「エニアグラム」という自己診断テストの話が出てきた。なにやらエニアグラムのタイプ別の成長は、成人発達(人間的な成熟)につながるらしい。 わたし自身、エニアグラムは2,3年前に一度受けたことはあったけれど、記憶も曖昧だったので久しぶりに受けてみることにした。 診断を受けてみた結果は「タイプ4のウィング5」で、"研究者寄りの芸術家"ということらしい。 ただ内容を読んでいくと、たしかに自分自身にしっくりくることがあった。

          表現することは自己理解につながる

          ロマン主義についての調べもの

          現在、六本木の国立新美術館で開催中の「テート美術館展 光」を観に行き、ロマン主義に興味が湧いたので調べてみた。 ロマン主義とは?1770年頃~1850年頃のヨーロッパで流行し、個人の感情や主観を重視した芸術様式。 「主義」や「芸術様式」と言われると掴みづらいけれど、 「多くのひとが感じていた価値観(多くのひとが価値を置いていたもの)」 と考えてみるとわかりやすい。 つまり、ロマン主義とは 1770年頃から1850年頃まで、ヨーロッパのひとたちは理性や合理ではなく、個人

          ロマン主義についての調べもの

          つくるタイミング

          深くわかろうとするために、試しにつくってみる。 そうすると、わかっていないことがよくわかる。 そんな話を昨日のnoteでした。 けれど、「よくわかるためには、模倣(模写)すればいいのね!」と意気揚々と模倣をしても続かない。 例えば、ある小説を読んでいるとしよう。 いままで特になにかを模写したりレポートをつくったりすることがなかったところから、いきなり一章読み進めるごとにわかったことを逐次書き起こしていたら、楽しめるものも楽しめない。ただの宿題になってしまう。 つくり始め

          つくるタイミング

          「わかる」と「つくる」は分けられない

          今まで「わかろうとする行為」と「つくろうとする行為」は、別の行為だと思ってきた。 けれど、実は「わかろうとする行為」と「つくろうとする行為」は決して分かれる行為ではなく、同じ行為であり分けられないものだった。 行動を始めるきっかけはどちらであれ、つくっていればわかってくるし、わかろうとすればつくることになる。 先日、牧野伊三夫展がやっていたので観てきた。 そこで福岡県の糸島の景色のラフスケッチが展示されていた。 スケッチを観て「このスケッチは糸島のことをより深く分かろうとす

          「わかる」と「つくる」は分けられない

          「わかる」と「つくる」の壁を越えるのは、友だちの存在

          昨日のnoteの続き。 昨日のnoteでは ・創作とは「つくろう」と意識してできるものではなく、無意識で「ついつくってしまう」もの ・「ついつくってしまう」状態に至るには、色々動いてみるしかない という趣旨の文章を書いた。 「色々動いてみる」というのは一理あるけれど、一晩経って本当に重要なのは「友人の存在」だと思い至った。 舞台を観た日に行ったことは、 ・友だちと一緒に舞台を見て ・友だちと感想会をした という一見他愛もないことだ。 ただ感想会という"場"は紛れもなく

          「わかる」と「つくる」の壁を越えるのは、友だちの存在

          創作とは「つくろう」とするものではなく「つい」やってしまうもの

          ずっと何かを「つくろう、つくろう」としてきた(まぁ今もつくろうとしているが) けれど、創作というものは理性や意識を用いて「つくろう」とするものではなく、直感や無意識によって「つくってしまう」ものなのかもしれない。 つい先日友だちと野田地図の舞台を観に行ってきた。 実は友だちと観に行く前に1人で観に行って、1回目が良かったので2回目を観に行こうと思い、折角ならと思い友だちを誘って観に行った。 2回目も2回目で楽しく観ることができた。 が、今回の一番の気づきは、その後の感想戦

          創作とは「つくろう」とするものではなく「つい」やってしまうもの

          狂気に惹かれる

          フィンセント・ファン・ゴッホの生き様に惹かている。 垣間見える狂気が好きなのだ。 彼の作品のなかには、何か執念や執着と言えるものがある。 私だったら、精神病院に入院した日には仕事なんてすぐ止める。絵を描くことが仕事だったら、すぐに止める。 同居していた友だちと喧嘩して、出ていったら、ちょっと絵を描くことを止めようと思う。 でもゴッホは絵を描くことをやめなかった。 たとえ精神的に病んでいても、気分が塞ぎ込んでいても、絵が売れなくても、同居していた友だちと喧嘩別れになって失

          狂気に惹かれる

          身体化・観念の外在化

          「誰かと話すことが好き」間違っていないけれど、しっくりきていない。 「誰かと対話したい」というのは純粋な欲ではなく、あくまで対話は自問自答するための1つの手段であり、自分の内側にあるモヤモヤとした"何か"や観念を「言葉」という形を用いて、腑に落ちる瞬間が楽しいだけなのだ。 だからなのだろう、こうやって急にnoteを書き出したのは、自分のなかにある"何か"にイイ感じの形が与えられる時があるからなのだろう。 「腑に落ちる」という言葉を自分はよく使う。 「五臓六腑」という言葉が

          身体化・観念の外在化

          決心には、積み重ねが必要だ

          昨日「決めること」についてnoteを書いたが、 今日も同じテーマで「決めること」考えてみたいと思う。 なんで自分は決めることが苦手なんだろう? と考えてみた時に、疑問に思ったことは 「決めるためには何が必要なんだろうか?」 ということだ。 自信とか好きなこととか色々あるが、シンプルに分類すると 過去の行為の積み重ね 周囲からの反応・フィードバック ではないだろうか。 「自分はこれが好きだよな」「自分はこの道だよな」と、 自分のなかにアンカーがある状態(「決心してい

          決心には、積み重ねが必要だ

          決めることが苦手なひとは、主張することも苦手

          「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」 詩人・茨木のり子のことば。 なんというかそれぐらい感受性というのは、守っておかないといけないもので、守っていないとすぐに壊れてしまう代物なのだ。 「心の豊かさ」と言ってもいい。眼の前の相手や社会に自分を合わせ過ぎて、自分の心を抑えていると、心が乏しくなり錆びついていくものだ。 気づいた時には、時すでに遅し。「自分の趣味ってなんだっけ?」とか「好きなこととは?」と言ってしまう大人になってしまう。 眼の前の相手に合わせることが

          決めることが苦手なひとは、主張することも苦手

          継承する姿勢

          ふと、自分は特定の対象に対して(主に1人のひとに対して)わかろうとする姿勢はあるけれど、わかったあとにその人のことを他の誰かに伝えようという姿勢はないよなと思った。 別の言い方をすれば、知りたい欲はあるけれど、伝えたい欲は小さい。 もちろん別のひとと話していて、先ほどのひとと会った方がいいなと感じたら紹介はするが、広く多くのひとに伝えたいとは思わない。 それはひとに限らずそうだ。 好きなものや趣味があっても、それを宣伝したり伝えたりしない。 何故なのか?もしかしたら「広

          継承する姿勢

          償いとしての創作

          放っておけば、ずっと考えている。本当に前に進まない。 「前に進む」とは何だろうか? 自分なりの定義は「他のひとに価値を(つくり)提供すること」または「他のひとに貢献すること」だ。 こうやって何かをnoteをひたすら書いているけど、誰かに貢献しているわけではない。 単に自分が自分の頭の中身を整理したい(前回の話であれば、観念に形を与えたい)だけだ。自分以外の他の誰かに貢献しよう、価値を提供しようなんて微塵も感じていない。 だから、立ち止まっているように感じるのだ。 かと言

          償いとしての創作