noteを書くことを再定義する

なぜnoteを書くのか

最近は自分のなかで投稿する意義がなくなりつつあり、Xでポストしたり、noteに投稿することが減ってしまった。

これまでXでポストしたり、noteを書いてきたのは、投稿することでその投稿を見たひとといつの日か会ったときに「最近〇〇してたね」とか「このまえのnoteに書いてた…」とか話題の種になればいいなと思っていた。

けど、最近は別にそんな話題の種なんか別になくてもいいなと感じ始めていて、別に話し始めるときに話題がなくたって、たとえ初めましてのひとでも一緒にいれば話題は見つかってくる。事前に互いのことを知っていたら会ったときに深い話ができることもあるけれど、そこまで関係性を急ぐ必要性も感じられない。

なにかを期待して投稿せず、言葉にすること自体をたのしむ

ただ実験的思考として、食事を楽しむかのようにSNSへの投稿それ自体を楽しめないか?と考えている。そこでメタファーとしてSNSへの投稿を「対話」として捉えることで、それ自体を楽しめるかもと思いついた。

わたしのなかで対話をしているとき、その行為それ自体が楽しい。
それで対話をしているときの楽しさを考えてみたら、もちろん相手とわかりあえるたのしさもあるが、自分のなかにあった考えが他者の存在によって思いもよらなかった形が与えられることよる驚きや楽しさもある。
対話をしていると、ときどき自分で自分の言葉に驚く。引き出された言葉を自分で認識して「たしかに!なるほど、そういうことなのか!」という驚きと快楽。
少し乱暴な言い方になるが、その快楽を視点にすると、他者の存在は自分の言葉を引き出してくれるただの媒介であり、単なる道具なんじゃないかなとも感じてしまう。

そこで思ったのだけど、SNSへの投稿も同じように考えられないだろうか?
対話のように眼の前にはいないし返答はないけれど、投稿の先には他者が存在する。
対話のとき自分が何か言葉を発するときと同じように、その場において思いついたことを「どうやったら伝わりやすいかな」と考えて言葉を編集して、他者に届けようと努める。
そうやって努めて外部化された言葉が時々発信者の自分を驚かすことができるんじゃないだろうか。

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