「わかる」と「つくる」の壁を越えるのは、友だちの存在
昨日のnoteの続き。
昨日のnoteでは
・創作とは「つくろう」と意識してできるものではなく、無意識で「ついつくってしまう」もの
・「ついつくってしまう」状態に至るには、色々動いてみるしかない
という趣旨の文章を書いた。
「色々動いてみる」というのは一理あるけれど、一晩経って本当に重要なのは「友人の存在」だと思い至った。
舞台を観た日に行ったことは、
・友だちと一緒に舞台を見て
・友だちと感想会をした
という一見他愛もないことだ。
ただ感想会という"場"は紛れもなく「わかろうとすること」と「つくろうとすること」が同時に行われていた。
それは、私が「つくる側」で友だちが「わかる側」と分かれているわけではなく、2人で共同創作・共同学習していた。
自分の感想でわかりづらい部分やおもしろそうな点があったら深掘りされ、逆に自分も質問して深堀り、共感したり相違点を見つけていった。
その共創/共学の場が成り立ったのは、ただ感想戦に居てくれたからではなく、その前の「一緒に同じ空間で、同じ体験をした」ということが大きい。私1人が観て、ただ感想を伝える場だったら、共創も共学もできなかっただろう。2人ともが"何か"を受け取ったが故に、成り立った場だった。
もちろん自分ひとりだけで、わかることも、つくることも可能ではある。
だけど、わかり切るまで・つくり切るまでには、それなりに胆力が必要であり、挫折してしまうひとも多いのは確かだろう。
ただ、誰か気の置けない友人と一緒であれば、やり切るまで続けることができる。
今回は演劇の話を例に出したが、美術や料理、旅行、ライブとかも当てはまる。
一緒に同じ空間に飛び込み、感想を言い合い、質問し合いながら、体験を通して抱いた(観)念を一緒に形にしていく。
そうした友人の存在が、ただわかったと(判断)して満足して、つくることなく終わってしまう状態を壊し、つくることに誘ってくれる。わかるとつくるの壁を一緒に乗り越えて存在なのではないか。