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言語における芸術としてのバルト #表徴の帝国

「これはエクリチュールについての本である。日本を使って、わたしが関心を抱くエクリチュールの問題について書いた。日本はわたしに詩的素材を与えてくれたので、それを用いて、表徴についてのわたしの思想を展開したのである」。天ぷら、庭、歌舞伎の女形からパチンコ、学生運動にいたるまで…・・・・遠い
ガラバーニュの国<日本> のさまざまに感嘆しつつも、それらの常識を く零度>に解体、象徴、関係、認識のためのテキストとして読み解き、表現体(エクリチュール) と表徴 (シーニュ) についての独自の哲学をあざやかに展開させる。

ロラン・バルト、読まず嫌いで難しいと思ってたけど面白かった。

表徴とは、それ自体意味付けがなされるものであり、おのれ以外のもう一つのものを考えさせるものである

象徴とは違い、ぴったりと適合するものを示す<表徴>
象徴はあくまでもそのものの一部分を示す類似しているだけのもの、ということはわかるような気がする。その表徴というものを、色々な「バルトが見た日本」の切り口から論じたもの、なのだけど、浅いところをなぞるだけでも面白い。
「日本料理の食膳は、このうえなく精妙な一幅の絵に似ている」と始まり、日本料理から表現体(エクリチュール)の基本的な姿を見ようとする「水と破片」なんかはバルト初心者にも結構わかりやすかったかも。和食の膳を自由に食べ進んだあとに残る「労働または遊びの刻印」を称揚しているところから、いわゆるバルトの「作者の死」を連想する人は多いのではないでしょうか。
あとは良く引かれがちな「中心のない食物」、すき焼きを軸に「料理作りの時間と料理費消の時間とを、一瞬のうちに結びつける(p39)」「<すき焼き>はとだえることのないテキストのように、中心をもたないものとなる(p40)」多分これもかなりわかりやすく、かつ詩的でインパクトがあるからみんな引いてくるんだと思う。
個人的に好きだったのはパチンコの一回こっきりの軌道修正を西洋の電動ビリヤードと比べ「線は断固として一気に引かれるべきであって、紙とインクそのものの性質からいって、線は決して矯正されえないものであるということを、根源的絵画の原則そのものを、パチンコは機械の世界の中に、あらわに示すものなのである(p50)」と述べて絵画芸術へ絡めていく論。

もちろんこの手の「西洋人から見た日本」的著作は常に暴力性が指摘されるものであり、バルトもそのことは充分自覚的である。実際わたしも、日本人じゃなければもう少しフラットに読めたな、という気持ちにもなる。
一応バルトは、冒頭であらかじめそこで記述される「日本」をどこにも実在しないロマネスクな「幻想国」であると指定している。それでこの手の問題から逃れられるとも思えないけど、まあバルトなりに可能な限りそういった批判を減らしたい、という努力の跡かな、と思った。

バルトは哲学者、記号学者、批評家、とWikipediaには書いてあるんだけど、これを読んでみてそう括るのも若干違っているのかもな、と思ったりもした。抜群のセンスを持ったアーティストが、言語という形をとって発表した芸術作品、みたいな読みがいちばん楽しいのかもしれない。

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