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無名エッセイストティコ、あなたにどうしても伝えたくて時間休を使って書きました。

まずは、皆さんに謝らなくてはならないことがあります。
note界を騒がせている「なぜ私は書くのか」コンテスト。

わたしのエッセイを、選考対象から除外してもらいました。

中間選考に通って「おめでとう」って言ってくださった方の気持ちを踏み躙ることをして、本当に申し訳ありません。ごめんなさい。
だったら最初から応募するなとか、多忙な審査員の時間を奪っただけだろとか、お前の枠に自分が入れたかもしれないのにとか、そういうお叱りもあるかもしれません。重ねて謝罪させてください。
大変申し訳ありませんでした。

ただ、理由もなくそうしたわけではないということを説明させてください。これをどう受け止めるかは、あなたの判断にお任せします。

わたしの知っている方も何人も応募していたコンテスト。
結果に関わらずあの・・記事に気持ちを揺さぶられ、自分の書いたものを振り返っている方もたくさんいました。
わたしも気持ちを揺さぶられなかったかと言えばそうではなく、こんな記事を書いてしまったわけで。

今読み返すと、勢いで書いて出したら全然まとまっていなくて恥ずかしいことこの上ない。

この記事が、主催の方の記事に引用されたのですが、そこでの扱われ方に納得がいかない、というのが選考対象から外してほしいと思った理由です。
具体的には、「落選した人の声」として紹介されていました。
無理だ、と思ってしまいました。

主催者にしてみたら、有象無象のうちのひとつかもしれません。でも、わたしにしてみたら、今回のコンテストの応募作は、創作大賞応募作につながる大切な大切な一編なのです。
あれを書いたから、『わたしの子宮は胎児を殺す。』に行き着くことができた。あ、これなんてタイトルからしてセンシティブ案件ですけども。クリックすらされないやつ。笑
いわば、わたしの最も大事な作品の、根底となる作品です。
その思い入れのある作品を、あの主催者に預けることはできない。

公募やコンテストというのは、読まれる、読まれない含めて主催者と応募者の信頼関係の上に成り立っていると思います。
作品を預けるに足ると思うから、応募するんですよね。わたしはそう。
でも、そこが成立しなくなった。信用できない。そう思いました。
同じように扱われている方は他にもいました。それについてのアナウンスが何もないまま、「落選した人」的な文言がしれっと別の言葉に修正され、わたしの記事が消えました。
自分で開催したコンテストの中間選考通過者さえ把握できていない人を、どうやって大事な作品を預けるに足る人物だと思えば良いのか。

わたしにとっては、コンテストに通ることよりも、命を削って書いている自分の作品を守ることの方が遥かに大事なことでした。

ここまで読まれて、あなたがどう思うかわたしにはわかりません。
心の狭い、面倒臭い女だなと思われて離れて行ってしまっても、それはあなたの自由なのでわたしにはどうすることもできません。
自分がしたこと、書いたことの結果として粛々と受け止めるだけです。


さて。
わたしはコンテストとは無関係の、いわば無敵の人となりました。
『こんなもんじゃない』のコメント欄にて、何人かの方々とやり取りをさせていただく中で、わたしの中のモヤモヤを言語化することができましたので、本題に入ります。タイトル回収します。
かなり圧強めで書きます。わたし、主催者に対しても、あの記事に対しても、本当に怒っているんです。
気持ちがついて来られないかもって方は戻るなら今のうち。


あのさ。まずさ。

惑わされんな?

これよ。これがわたしの一番言いたいこと。
まして、今回のお題は「なぜ私は書くのか」でしょう?
そこであなたの色を出さないでどうするの?
あなたの生き方を問われているんだよ。あなたの命の使い方を問われているんだよ。
純度100%のあなたを出して大正解なんです。
あなたの書く根底にセックスや薬物、病気があるのなら、それを出さないといけない。
それに対して、「反省」して自分で添削して、「こう書いたほうが読んでもらえたのかな」「こういう話題は出さない方がよかったのかな」「配慮が足りなかったのかな」って……あなたはそれでいいんですか。
これからもそうやって書いていくんですか。
それは、誰の作品ですか? 誰のための作品ですか? 誰のために、何のために書いているんですか?
読まれる読まれないは、もう出してしまった以上は自分の預かり知らぬところです。あなたがそうやって書きたいのなら、それが正解だった。

あなたの作品には、あなたにしかない色があります。
たった一つの記事なんて瑣末なことに惑わされて、その綺麗な色を濁らせないでほしい。輝きをくすませないでほしい。
あなたにしかない色を読者はあなたに求めているんです。
決してコンテストに通るために配慮に配慮を重ね、毒気を抜かれた作品を読みたいと思っているわけではないんです。

思い出してください。あの・・記事を書いたのは、誰ですか?
たったひとり。
たったひとりの、書く専門家でもなんでもない「普通の読者」が、「わたしはこういうのがしんどかったんだよぴえんみんなに優しくしてほしかったなぴえんぴえん」って16000字を費やして語っているだけなんです。それを昨日の記事で確信しました。
たったひとり。
たったひとりに刺さらなかった。それだけのことです。

無敵の人ついでに言ってしまうと、参考作品。
あれ、わたし最後まで読めませんでした。途中で離脱した。
面白かったらどんなに長くても詰まっていても最後までじっくり読みますけど、わたしにはそうする理由がなかった。
まさにそこにあったのは、「知らんがな」。
でも、たったひとりの「普通の読者」のわたしには刺さらなかったけど、たくさんの支持を得ている。
誰に何が刺さるかなんて、まさに「知らんがな」の最たるものじゃないですか。
わたしの文章が嫌いだって人も絶対にいるわけですから。
万人にウケるものなんて存在しないし、仮に存在するのだとしたらそれは極めて危険な思想だと思います。

わたしに刺さらなかったからと言って、参考作品の価値が落ちるわけではありません。
それはあなたの作品についても同じです。
たったひとりの審査員に刺さらなかったからと言って、あなたの作品の価値が落ちるわけじゃない。その価値は変わらない。

わたしはあの記事で、書き手のあなたが「いきなりセンシティブNG」「行間や改行たくさん入れなきゃ」「書いたことを実行できていない文章だから公開しちゃダメかな」「これじゃ弱いのかな」「これを読んだ人にどんな得があるんだろう」と不安に駆られ、結果noteの街全体がつまらなくなるってことが万が一あったとしたら。書けないってことが起きてしまったとしたら。あの記事と、あの記事を書いた人と、GOサインを出した主催者を許せません。
わたしが見たいのは、あなたにしかない色です。あなたにしか描けない景色です。
何度でも言う。
あなたにしかない色は、唯一のもので、綺麗なものだから、それを絶対に守ってほしいんです。濁らせないで。

あなたの読者は、あなたの文章を好いてくれる人は、あの記事を書いたたったひとりより軽い存在ですか?
そうじゃないって言ってくれるのを、信じています。