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『裂かれた大麦のパン』

2024年11月24日

 今日はTICA恒例のThanksgiving感謝祭があります。七面鳥とパンプキンパイをたくさん食べてアメリカ伝統の感謝祭を楽しみたいと思います。なので、今日は食べて満腹する話です。

ルカによる福音書から5つのパンと2匹の魚の話をさせていただきます。
この話も有名な話なので教会学校の子供たちが何度も聞かされてよく知っている内容です。私も幼い頃から教会学校で育ってきていたのでこの話になると、「2匹の魚はどうなったの?」、「12の籠なんてどっから出てきたの?」などと教会学校の先生を困らせるような面倒くさい子どもでした。

■ルカ9:10~17
使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

この話は4つの福音書(マタイ14:15~21、マルコ6:35~44、ヨハネ6:1~15)、すべてで取り上げられていますが、ヨハネによる福音書に記されているということでこの奇跡の重要性を確認できるかと思います。ヨハネによる福音書に記されている奇跡は7つしかなく、(こういう表現は少し誤解を生むかもしれませんが)考え抜かれて福音書が編纂されているからです。ですから、このパンの奇跡は単純にパンが増えたというものではなく、重要な意味が含まれていると思われます。

ベトサイダは近年の発掘調査で発見されていて、カファルナウムの北東8kmくらいの内陸(キリスト時代はガリラヤ湖の湖畔にあった)にありました。人里離れたところということなので、キリストは派遣先から戻ってきた12弟子を休ませるためにベトサイダからさらに人のいない辺りに移動したと思われます。
問題はこの男性だけで50,00人、女性と子供、すべて合わせ100,00人以上の群衆がどこからやってきたのかということです。当時はカファルナウムの人口でさえ15,00人程度だったといわれており、ベトサイダはさらに小さな町でした。いくらなんでも周辺の住民がすべてやってくるとも思えません。
また、日が傾きかけた状況で確かに食べ物の問題は解決していますが、宿の問題はどうしたのでしょうか?
パンを与えるだけなら、それこそ転がっている石をパンに変えてもよかったのではないでしょうか?

皆さん、この話をどう考えるでしょうか。


【まとめ】

この話には4つの福音書を読み比べる時にいくつか重要な背景があることに気づきます。まずは、ヘロデ・アンティパス王によってバプテスマのヨハネが処刑された後で12弟子がキリストに派遣されて戻ってきた直後の出来事だったこと。そして、過越し祭が近づいた時期であったことです。

私たちはここに集まった人たちがパンも買うお金も持たない貧しい虐げられた人たちというイメージを持っていないでしょうか。恐らくそれは違うのではないかと思われます。
ヨハネの福音書によるとこのパンの奇跡の後も群衆は数日に渡ってキリストを追いかけ、時には小舟に乗って探した上で着いていったように記されています。ですから、この人たちは金も食料も持たない人たちではなく、多くは旅の用意もできており弟子たちの派遣効果で各地から集まってきた人たちだったのではないでしょうか。

そうすると、このパンの奇跡が貧しい人にパンを分け与えるためのものではないということになります。
さらにヨハネによる福音書から5つの大麦のパンと2匹の魚を名もわからない少年がキリストに食べてもらうために差し出したことが書かれています。少年の素性がまったくわかりませんが、この量の食べ物はひとりの少年の食事としては多すぎです。恐らく家族がいて持っていた食べ物をキリストに捧げたのだと思います。

このパンの話が本当に奇跡だったのか、そうじゃなかったのか私は理解に迷うところがあります。
すべての人ではないですが、彼らは旅の用意ができていた人たちがいましたから食べ物を持っていた人たちがある程度、いたのではないかと私は考えます。12の籠は彼らが食べ物を差し出す中で、彼らから提供されたものだった可能性があると思っています。
ただ、皆が持っていたパンを提供したとしてもさすがに10,000人、すべての人が満腹するのは不可能な気がするので、彼らの善意の上に起こった奇跡なのかもしれません。

そうしたなかでこの話の最も重要な部分は、注目もされない少年によって大麦のパンが神に捧げられ、祝福されて大麦のパンが裂かれたということではないかと思います。パンはキリスト、福音であり命なのです。

■ヨハネ6:26~27
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

ヨハネにはこの話の続きが記されていて、パンの奇跡を体験した人々がキリストを追いかけたとあります。その際にキリストは本当に得るべきなのは人を永遠に生かす天からのパンであることを教えます。

■ヨハネ6:51
わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。

大麦はキリストを表すものです。過越し祭が近づいていたというのも実は偶然ではなく、同時に行われる初穂の祭りが迫っていたということでもあります。初穂の祭りは大麦の収穫を祝うものだったのです。

■第1コリント15:20~21
しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。

このパンの奇跡とはユダヤ人の救いを示しています。
この人たちの多くは弟子たちの宣教の効果でやってきたユダヤ人だったと思います。そのなかで彼らが気にも留めなかった少年(これは異邦人である私たちを象徴)がパンを差し出し、それを感謝して分け与えていくときにユダヤ人の腹を満たし12の籠、これはイスラエルを象徴する備えのパン机の12のパンの入れ皿を示しています。供えのパン机は和解の供え物であり、イスラエルと神の関係が完全に修復されてともに食事を楽しむということを示しているのです。

今日も神とともにある皆さんの食卓が祝福されて、食事を囲んで喜び楽しみが満ちますように!!