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【読切小説】君の微笑みは、春風に乗って【8667文字】

冬の風が頬を刺すように冷たい。
空はどんよりと曇っていて、学食の窓にも露がついている。
外の景色はぼやけ、灰色の世界に沈んでいた。

だが、俺は浮足立っていた。
恋人である紗希に、早く結果を伝えたかったからだ。
紗希は学食の片隅で、湯気の立つ紙コップをそっと握りしめていた。
「紗希」
声をかけると、ふわっと視線をこちらに泳がせ、彼女は微笑んだ。
「悠斗。どうだった?」
今日は公務員試験の合格発表の日だった。
「受かった!受かったよ!」
持っていた合格発表の封筒を紗希に見せようとしたが、思いの外力強く握りしめて来てしまったようで、それはくしゃくしゃになっていた。
「そんなに焦って走って来なくてもよかったのに」
紗希はくすりと笑うと、こちらを見上げた。

俺と紗希は大学のゼミで知り合った。
それは、何の変哲もない春の日だった。
新学期が始まり、ゼミの自己紹介が行われた日。
緊張した面持ちの学生たちが、順番に名前と簡単な自己紹介をする中で、彼女は一際目立っていた。
「経済学部の櫻井紗希です。統計学に興味があって、この学部を選びました。よろしくお願いします」
それは淡々とした挨拶だったが、他の女子のように媚びるでもなく、凛とした佇まいに、俺は思わず見惚れた。
その姿勢、声のトーン、どれもが落ち着いていて、どこか他の学生とは一線を画していた。
紗希の言葉が終わると、教室の空気がしばらく静かに漂った。
俺は、自分でも驚くくらいその場の静けさに引き込まれた。
初めは俺から声をかけた。
「その……統計学って難しそうだよな」
無理に話題を作ったつもりだったが、意外なことに、紗希は優しく微笑んだ。
「そうですね。最初はとっつきにくいですけど、慣れたら面白くなりますよ」
その一言で、俺はすぐに彼女とは仲良くなれそうだと感じた。
彼女の話すペースや言葉の選び方が、どうにも心地よかった。
「そうなんだ……じゃあ、頼りにしてもいいかな?」
自然と冗談交じりに言ったが、紗希は微笑みながら聞いてくれた。
「もちろん。私もまだまだ勉強を始めたばかりだから、黒崎くんも一緒に頑張りましょ」
その瞬間、俺は心の中で確信した。
紗希となら、きっと楽しい大学生活を送れる。
いや、それ以上にもっと近く感じた。
彼女の強さ、優しさ、どこか儚げな雰囲気――それら全てに、すぐに引き込まれてしまった。
それから、俺たちはよくゼミで一緒に課題をこなすようになり、自然と時間を過ごすようになった。
最初のうちは、学業に集中する毎日だったが、そのうちお互いの趣味や興味を共有し、笑い合うことが増えていった。
俺たちの距離はどんどん縮まっていき、気づけば一緒にいることが当たり前になっていた。

合格の報せを、紗希はもっと喜ぶと思っていた。
だが、彼女の表情はどこか暗い。
俺は席に座ると、封筒を広げながら喜びを噛み締めて、もう一度言った。
「受かったよ、紗希。君のおかげだ!」
そんな俺を見つめる紗希の笑顔は、確かに優しくていつもの紗希そのものだったけれど、どこか無理に作ったようにも見えた。
「よかったね、悠斗」
その声には、少しだけ硬さが感じられた。
彼女の目は、どこか遠くを見つめているようで、湯気が消えた紙コップを握る手も、少し震えているように感じた。
「紗希?どうした?何かあった?」
気まずさを感じながらも、俺は思い切って問いかけてみる。
「……ううん、悠斗、よかったね」
何か歯に物が詰まったような言い方をする紗希に、俺は疑問を抱いた。
だが、紗希は明るい声で言い直した。
「それにしても、これで悠斗も一歩先に進めるね。おめでとう」
その言葉に、俺は少しだけ安堵した。
だが、胸の奥に小さな不安が残るのを感じていた。
「……悠斗に……大事な話があるの」
紗希の声が小さく震えている。
これまでに見たことのないような、怯えているとも、不安ともとれない彼女の表情に、俺は思わず息を呑んだ。
「……大事な話?」
紗希は小さく頷いた。
だが、すぐに言葉を続けることが出来ないのか、薄く開いた唇はすぐに閉じてしまった。
「……ここでは話せないから、出よう」
俺は頭の中で、今までの二人の関係を反芻した。
喧嘩らしい喧嘩もしたことはなかった。
もしかして、喧嘩らしい喧嘩も出来ない程に、俺がわがままだったのか?
頭がガンガンと脈を打ち始めた。
学食から出ると、紗希は重そうな足取りで、ゆっくり通路の影の方へと歩いて行った。

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