授業準備は要らない
教員は基本的に毎日授業を行う。
一日5コマくらいが平均だろうか。
一週間だと、20コマ〜25コマくらいが平均だろうか。
来る日も来る日も行う授業のための準備をしている。
調査によれば、日本の教員が授業準備にかける時間は平均で週に8,5時間だそうだ。これは外国と比べても少なくないと言われている。
授業の準備とは通常、
①指導内容を確認
②指導計画を立てる
③教材準備
である。
なぜ、教員はこれだけ時間をかけて授業準備をするのか?
それは、子どもに楽しく学習してほしいとか、主体的に学んでほしいとか、できるようになってほしいとか、様々な理由があるだろう。
しかし、一番の理由は
「授業をコントロールすること」である。
教員が考えた通りに授業を展開し、予想通りに子どもが思考し、予定通りの結果を出すことが一番の目的になっている。
そして、授業の準備に時間をかければかけるほど、自分の授業を自己評価する際に、自分にとってポジティブなバイアスがかかってしまう。
そして、授業準備に時間をかける自分をも疑問なく肯定することになるのだ。
しかし教員の意図した通り思考して、教員の思い通りに評価した結果で学びの良し悪し判断をしていいのだろうか。それを良い授業としていいのだろうか。
教員の思い通りにコントロールされた児童は高評価で、思い通りにならかった児童は低評価ということになってしまわないだろうか。
子どもの思考や理解度は一人一人違うし、どんな事に疑問を感じるか、どこでつまづくかなど、授業には不確定要素だらけだ。
しかも学習は授業中にだけ行われてるわけではないし、そうであってはならない。
授業の中で理解できた子も、復習を怠れば定着しないことも多い、理解できなかった子は復習して理解するかもしれないし、二度とそのことについて考えない子もいるだろう。
そんな子どもの学びの中のたった45分をコントロールすることに、そんなに意味があるだろうか。
きっと賢い子は、心の中で舌を出し「こんなの塾でとっくにやってる」と思いながら、先生の顔色を見て、コントロールされたフリをしているだろう。
そんな子を見て、自分の授業に満足しているとしたら、それは只の自己満足だ。
授業の目的にコントロールする側の満足があってはならないと思う。
45分の中で40人がどう動いて何を考えて何を発言するかという不確定要素をありのまま受け入れることから今までとは違う新しい授業が始まるのではないだろうか。
「それでは授業を始めましょう。
君のこの時間のめあては何?
あるなら学習を始めて下さい。ないなら一緒に考えましょう。どうしてもやる気が出ない人はご自由に。でも他の人の勉強の邪魔にならないようにね。」
これは極端な話だが、
同じ空間を共有した上で、できる限り個に応じた授業を行うとするならば、授業の最初にこう指導すればよい。
後は、児童の動きに応じて教員の方が指導を変化させていくべきだろう。
要するに、授業に必要なのは計画性ではなく瞬発力である。
どんな疑問や反応に対しても、素早く正しく対応して、子どもを後押ししてあげられる力こそが授業において教員に必要とされるのだ。
教員は、見通しが立たない授業への恐怖心に対し、コントロールという手段で払拭するのではなく、子どもと一緒に解決策を考えるという覚悟を持つことで立ち向かうべきである。