裏の畑
田舎の夏の夜は、泣いちゃうくらい涼しい。
家の四方八方でテントを張れるくらい無駄に広かった実家の庭は父親ひとりの手入れが行き届くわけもなく、それぞれの土からそれぞれの生命が好き勝手に生えてきた。
幹の直径が1メートルはあった大きな木。家の屋根よりもはるかに高いその巨大な影の中にビニールベッドを2つ並べて、髭の長いじいちゃんと一緒によく昼寝をした。
裏玄関のビワの木。妹と木登りして洗いもせずにニヒニヒ言いながらビワをたくさん食べた土曜日。口の周りがベタベタですぐ母にバレたけど怒られなかった。
玄関の前の梅の木。春先に濃いピンク色が煌めくたび、コレ桜?と毎年母に問いかけた。梅だよ。梅はね、桜よりも先に咲くんだよ。
うちの木はどれも元気が良かったけど、敷地内に新しい建物を建てたりコンクリートを流したりするたびに、私たち一家は生きている木にメスを入れなければならなかった。
切り捨てて根っこから死んだ木はさらに小さくして、いつも父が裏の畑で燃やした。少しずつ、細々と。夕方から燃やし始めた火は夜になっても絶対に消えない。愛すべき庭の木が灰になるのは、何時間もかかる。
私はその行事が結構好きだった。小さく燃える火の中にアルミホイルで包んだじゃがいもを放り込み30分くらい火を通して、塩を振ってハフハフ食べるのが最高なんだと父に教わった。確かにすごくおいしかった。
夜、お酒を飲んで気持ちよく酔っ払った頃、火の様子を見に行こう、と父はよく私に言った。10歳の私はその一言のために22時まで起きていた。燃やす日が好きな1番の理由は、火を見に行く夜の時間だった。
カエルの鳴き声、蝉の声、田んぼに送る透明な水の音。全部くぐりぬけて2人で夜の畑へと歩く。扇風機の前でさっきまで汗ばんでいたタンクトップ、夏の夜には少し肌寒い。
真っ黒な景色の中、小さいけれどやはり火はまだ燃えていた。オレンジ色の光はじんわり温かかった。
火の調子を見ながら父となんの話をしたのかは全く覚えていない。でも、燃える匂いは覚えてる。煙が細くて、火葬場みたいだと思ったのも覚えてる。梅の木を切らなければならなくなった朝、生きている木なのに、と泣いた母の顔も覚えてる。植物が死ぬことが悲しいの?なんで?と聞いたことも、覚えてる。
父はなんの抵抗もなくたくさんの木に火を放ち、私はそこで出来上がるじゃがいもと夏の夜の涼しさがだいすきだった。じゃがいも美味しいから食べなよと言っても、母の目はあんまり笑っていなかった。そういえば、夜の探検に来てくれたことも、一度もない。
実家にはもう、燃やす木がない。髭の長いじいちゃんも死んで灰になってしまった。涼しい夏の夜、そんなことを思い出して、ちょっとだけ泣きそうになる。
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