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忘れられた郷土玩具蒐集家にして大物趣味人・鷲見東一小伝

1. はじめに―当時の有名趣味人?

 昨年久米龍川が編集していた雑誌『郷土風景』(後に『郷土芸術』と改題)を以下の記事で紹介したが、この雑誌の創刊号に鷲見東一という人物が投稿している。

この記事を投稿した当時は特にこの人物のことが気にならなかったが、後に加賀紫水の編集していた雑誌『土の香』に鷲見がいくつも文章を投稿しているのを発見してからこの人物のことが気になり始めた。そこで雑誌記事索引データベース「ざっさくプラス」で確認すると、鷲見の投稿していた雑誌が少なかったため、当時もあまり知られていない人物であろうと考えた。

 しかしながら、後に私の入手した戦前に発行された様々な蒐集趣味、民俗学、郷土研究関連雑誌に鷲見が多くの文章を投稿しているのを発見して、私の考えは間違っていたことが分かった。鷲見は当時の蒐集趣味、郷土玩具、民俗学に関心のある人々の間で比較的知られた人物であったようだ。

 しかしながら、鷲見の活動は主に郷土玩具に関わるものであったが、郷土玩具関連の辞典に立項されておらず、今日鷲見の名前を聞く機会はまったくないと思われる。(注1)『浪速おもちゃ風土記』奥村寛純(村田書店、1987年)(以下『風土記』)では、鷲見は廃絶していた玩具である堺土人形を復興させた人物として紹介されているが、詳しい経歴は書かれていない。『和みのおもちゃ絵・川崎巨泉』森田俊雄(社会評論社、2010年)(以下『おもちゃ絵』)では、川崎巨泉と交流のあった人物の1人として紹介されているが、名前のみの登場である。このように私が調べた限りでは、鷲見のことを詳しく紹介した文章は見つからなかった。そのため、ここ1年で私が調べて分かった鷲見に関することが断片的であるとしても、文章にする意味は少なからずあるだろう。私が鷲見のことを紹介することで、少しでも関心を持っていただける方がいらっしゃれば幸いである。

 なお、余談になってしまうが、鷲見の生年が分かり、没年の範囲が推定できた昨年11月の時点で記事にしようと考えていたが、その後様々な発見があったため記事にするタイミングを失ってしまった。没年が確定できた段階で一区切りを付けて今回記事にした。

2. 鷲見東一の投稿していた雑誌

 上述のように鷲見は様々な雑誌に投稿していたが、まずは鷲見の活動の一端を示すために投稿していた雑誌を以下に記載したい。鷲見は投稿していた雑誌のひとつである『土の香』に「鷲見東一」、「鷲見桃逸」、「鷲見登位置」と複数の筆名で投稿しているが、これらの人物は同一人物である。

※雑誌記事索引集成データベース「ざっさくプラス」に収録されているものは雑誌名の前に丸印を付けた。

※私が実際の雑誌や本で確認したもの以外は参考にした情報を記載した。

※拙noteで紹介したことのある雑誌は参考記事のリンク先を貼っておいた。

土の香 愛知 土俗趣味社 加賀紫水が編集していた民俗学、蒐集趣味関連の記事が載せられていた雑誌。第17巻第4号に「鈴占神事」を投稿。(この号は小牧市立図書館が運営しているこまき電子図書館から閲覧可能)

官国弊社国の礎(以下『国の礎』) 愛知 旭櫻趣味会 1927年 加賀紫水が蒐集した官弊社のスタンプをまとめた本。鷲見がいくつか文章を投稿している。詳細はリンク先を参照。

尾張の方言 愛知 土俗趣味社 1931年 加賀紫水が編集。NDLオンラインより

続尾張の方言 愛知 土俗趣味社 1932年 加賀紫水が編集。NDLオンラインより

郷土風景 東京 岡山出身の久米龍川(谷川要史)が編集していた民俗学、旅行関連雑誌。第1巻第1号に「土俗玩具漫談」を投稿。

でこさん(A) 郷土玩具関連の趣味誌

鶴城 愛媛 赤松厳が編集していた蒐集趣味関連のタブロイド紙。第5巻第11号に「思ひ出すままの記(一)」を投稿。

全国郷土玩具大番附(全国おもちゃ大番附)(B) 鶴城発行所 鷲見が編集した郷土玩具番附表。梅林新市が編集していた『雉子馬』第2期第3号で紹介されている。現物も確認した。

○郷土趣味(C) 愛知 山下俊男が編集していた郷土研究関連雑誌。京都の田中緑紅が発行していた雑誌とは別の雑誌。第1編に「八ッ鹿踊の研究」を投稿。

名物及特産(D) 大阪 第2巻第8号に「松江名物『野焼』」を投稿。

趣味と名物(D) 大阪 『名物及特産』の後継誌。鷲見は多くの文章の投稿している。3巻3号に「岐阜地方特産のてんぴら」、「『のし梅』『丸ゆべし』の頒布を受けて」を投稿。

遊覧と名物 大阪 旅、蒐集趣味関連雑誌。『趣味と名物』の後継誌。後述するが、鷲見が主幹をしていたおり、多くの文章を投稿している。第5巻第7巻に「宝船」、「蒐集趣味は道楽ではない」、「北から西へ南へ名物行脚」を投稿。

郷味 愛知 浅井英一が編集していた郷土史、蒐集趣味関連のタブロイド紙。第4巻第6号に「掘出し物譚」を投稿。

京都寸葉(E) 京都 郵便関連の蒐集趣味誌。創刊号に投稿。

○旅と伝説 東京 第3巻第3号に「古賀人形と木の葉猿」を投稿。

郷土玩具大全 東京 国会図書館デジタルコレクションで確認。『旅と伝説』の郷土玩具特集の文章をまとめたもの。

田舎 大阪 横井照秀が編集していた民俗学関連雑誌。10号に「佐渡なまり」を投稿。

日向郷土志資料(F) 宮崎 日野巌が編集していた民俗学関連雑誌。第五編に投稿。

べにうし 福岡 郷土玩具関連の雑誌。第1冊に「豊後竹田起上り小法師の伝説」を投稿。

多納趣味 愛知 浜島静波が編集していた蒐集趣味関連雑誌。3号に「昔ながらの住吉人形」を投稿。

蒐集趣味雑誌 兵庫 松本喜一が編集していた雑誌名の通りの趣味誌。第2巻第2号から第7号まで「牛のおもちゃ雑感」を投稿。

鯛車 東京 郷土玩具蒐集家・有坂与太郎が編集していた郷土玩具関連の雑誌。鷲見が頻繁に投稿。

○日本及日本人 第141号に「(楠公篇)大楠公の兵法」を投稿。

大阪化粧品商報(G)

風車? 愛知 浜島静波が編集していた郷土玩具関連の雑誌(H)

和泉 大阪 3号に「泉州名菓 村雨餅」を投稿(I)

郷土と趣味 大阪 『和泉』の後継誌で堺市で発行されていた郷土研究関連雑誌。第4年第1月号に「南宋寺と家康廟」を投稿。

土偶志(でくし) 韓国(釜山) 韓国で発行されていた郷土玩具関連の雑誌(とっとりデジタルコレクションで第五期第二号、第七期第一、二号が閲覧可能)

(A)神保町のオタ様の以下のツイートより。『郷土玩具文献解題』川口栄三(郷土玩具研究会、1966年)(以下『解題』)によれば、大阪で発行されていた玩具趣味誌で戦時特集号は彦根の奥井清二郎によって発行された。

(B)以下の記事内に挙げている梅林新市が作成した郷土玩具文献目録を参照。実際の番附名は「全国おもちゃ大番附」

(C)Twitterで交流のあるMR様よりご教示いただく。

(D)大阪府立中之島図書館様よりご教示いただく。

(E)神保町のオタ様の以下の記事での紹介より。

(F)宮崎民俗学会、WATANABE様が紹介している『日向郷土志資料』の書誌情報より。

(G)モズブックスのWebページの出品履歴から確認。以下のページによると、週刊一周念記念の号に鷲見が投稿しているという。

(H)ぬりえ屋様(Twitter:@nurieya2016)よりご教示いただく。『風車』の刊行予告に投稿予定者のひとりとして鷲見が紹介されている。雑誌の現物を確認できていないので、推測として?を付けた。

(I)堺市立中央図書館様よりご教示いただく。

上述の書誌は不完全であるが、鷲見が日本列島各地から当時の外地までの様々な趣味、民俗学、郷土研究関連雑誌に投稿していたことが分かるだろう。ここから鷲見は戦前の趣味人たちの間で知られていた人物であることが推測できる。『京都寸葉』には、「創刊を祝して」という文章を鷲見は投稿しており、創刊のあいさつを依頼する、引き受けてもらうことに意味のある大物として鷲見は趣味人の間で認知されていたように考えられる。『多納趣味』第2号の「玩具だより」では、鷲見のことが「堺市鷲見東一氏は玩具研究者として関西に其の名を轟かせ居らるる」と紹介されている。この記述を考慮すると、当時の趣味人たち、特に郷土玩具蒐集家たちの間では有名であったようだ。

 他にも鷲見の投稿は確認できなかったが、鈴木仁三が編集していた郷土玩具関連雑誌『加良久利』第2号(大日本趣味同好会)(注2)に創刊祝いの手紙を送ったことが紹介されていたり、田中緑紅が編集してた『鳩笛』第5号にこの雑誌の賛助会員として紹介されていたりと文章の投稿以外にも趣味誌の読者、支援者として蒐集趣味界と関わりがあった。また、鷲見は堺蒐集趣味会という団体を主宰(注3)しており、堺周辺の趣味人たちの中心にいたようだ。

3. 鷲見東一小伝―様々な雑誌の間から

 では、大物趣味人であった鷲見の生涯はどのようなものであったのだろうか?私が調べた限りでは、鷲見の自伝はまとまった本として出版されたことがないため、鷲見の生涯を追うことはなかなか難しい。しかしながら、鷲見が投稿した文章、彼が投稿した雑誌、関係者の証言から断片的ながら追うことが可能だ。まずは鷲見の自伝的な文章が『鯛車』45号(1941年9月)の「玩具人自画賛」に載っているので引用してみたい。

(前略)斯く申す拙者の生れ故郷は、岐阜は良い處金華山の麓小田の蛙を寝ちよつて聞いちよつたと俗謡に唄はれている岐阜市の真ン中、拙宅の一軒置いて隣が美江寺の土鈴を製造する家であったから、工場に入っては悪戯をして叱られたことを記憶している。即ち生れながらにして玩具に縁が繋がれたと見へる。
 今日まで辿って来た路を回顧すると実に波瀾曲折に富み、官吏もした、土方の親分にもなった、青棲の帳場もした、一番長いのは何と云っても新聞記者生活三十年、といふとお年は?と問ひたくなるであらうが、教育勅語の発布された時は既に学校に通って居つたと云へば、ハハーンと合点が行くことであらう。けれども寺子屋だけは行って居らぬ。尋常小学校へ六年にして入学したといふのだから老いたりと雖も未だお若いつもりである然し頭だけは承知せず、頭髪既に霜を頂き、毛は抜ける一方で、所謂瀧の白糸型に退却した結果は、子供達にハイキングの兄さんだと云つても、逢ふおっちゃんだと承知せぬ、斯うなると正直な子供が怨めしくなる。(中略)
 生まれながらにして金に縁のない男で、先方が嫌ふと共に此方も御免を蒙つて金以外のものは何でも集めるという色気の多い蒐集趣味、これでも一番根強いのはおもちゃで、始めてからもう二十五六年にもならうか。今後も雖もこればかりは続けて行きたい念願、幸ひに皆様の御援助を切にお願ひする。(一部を筆者により現代仮名遣いにあらため、読みやすくなるように必要に応じて句読点などを追加した。)

『鯛車』45号「玩具人自画賛」

鷲見が書いた自身の肖像画も掲載されているので、以下に写真を載せておきたい。

鷲見の肖像画

 上記に引用した文章(以下自伝)からいくつか補足していく形で進めていこう。鷲見は岐阜県の出身であったことが分かるが、自伝には生年に関しては明確に書かれていない。『郷土趣味』第1編の編集後記で編集者の山下俊男がこの号の投稿者の紹介を行っているが、鷲見のことを以下のように紹介している。

鷲見東一氏 岐阜市の産、明治十六年一月生れ未年の五十四才、過去三十年間新聞記者として活躍せられ現在では著述と趣味の研究に精進せらる。
 詩歌集「ほのほ」演芸評論「艶麓」、趣味方面では「大阪の玩具」方面をかへて財界の人物旦「財界に躍る人々」等の著述あり。
 現在、堺市向陽町に住居せらる。(一部を筆者により現代仮名遣いにあらため、読みやすくなるように必要に応じて句読点などを追加した。)

鷲見が1883年1月に岐阜県岐阜市で誕生したことが分かった。自伝を書いた当時は58歳であったようだ。鷲見は大阪を中心に活動していたので岐阜から移住しているが、私が調べた範囲ではいつごろ移住したのかは分からなかった。『名物及特産品』第2巻第7号(1923年7月)の「名物交換の項」では、鷲見の住所は「堺市櫛屋町東三丁目」になっているため、少なくとも1923年7月以前に堺市に移住したのだろう。鷲見は大阪でこの住所に住み続けたわけではないようで、『遊覧と名物』4巻10号(1925年10月)まで同じ住所である(注4)が、『遊覧と名物』第5巻第7号(1926年7月)に載っている蒐集趣味家一覧では、鷲見の住所が堺市向陽町八〇ノ一となっている。そのため、1925年10月から1926年7月の間に引っ越したことが分かる。

 興味深いのは、鷲見の生家の近所で土鈴を製作していたことだ。自伝で述べられているように、生まれながらにして鷲見は郷土玩具と縁があった。この縁は不思議なもので詳細は後述するが、鷲見は廃絶していた堺人形を復興し、その仕事を継いだところのひとつが土鈴も製作していた。郷土玩具の中でもとりわけ堺人形との奇縁を感じざるをえない。

 次に鷲見の職業を確認していこう。自伝では、「官吏もした、土方の親分にもなった、青棲の帳場もした、一番長いのは何と云っても新聞記者」と述べられているので、学校卒業後職業を転々として最終的に新聞記者に落ち着いたことが分かる。このあたりの職業遍歴の詳細は残念ながら分からなかった。また、学歴については自伝にあるように尋常小学に入学したこと以外不明だ。蒐集趣味人には学歴や職業はあまり関係ないかもしれないが、詳細が気になるところだ。

 自伝と上記の投稿者の紹介で共通しているのは、長年新聞記者の仕事をしていたということであるが、新聞記者としての鷲見の記録はわずかながら発見できた。『郷土趣味』第1編が発行されたのは1936年5月なので、この時点で新聞記者をやめていると思われる。鷲見がつとめていた新聞のひとつが「大阪万朝報」であったことは次に紹介するいくつかの資料から分かっている。『昭和六年版日本新聞年鑑』(新聞研究所、1930年)の「府県別及社別実況」によると、鷲見は大阪万朝報の経済担当の記者であったようだ。(注5)大阪万朝報の記者として鷲見は1923年6月24日に行われた缶詰開缶研究会第8回を取材している。(注6)『昭和八年版日本新聞年鑑』(新聞研究所、1932年)には、鷲見の名前は記載されていないので、この年までに大阪万朝報から退職したと思われる。また、後述する情報から鷲見は大阪今日新聞にもつとめていたことが分かる。大阪今日新聞の創刊は1923年2月11日(注7)なので、鷲見の大阪万朝報に勤務していた時期を考慮すると、大阪万朝報在籍前後どちらに在籍していたかは分からない。

 また、上述のように詩歌集「ほのほ」、演芸評論「艶麓」を発行したとあり、詳細は不明ながら鷲見は新聞記事や蒐集趣味以外の文章も執筆していたことが分かる。一方で蒐集趣味関連では、加賀は「鷲見氏は多年操觚界にあって傍ら”遊覧と名物”の主幹として縦横に趣味ある麗筆を振っておられる」と述べている。また、「御愛読趣味家鑑」(『神戸趣味新聞』第八号(1925年8月発行)附録)には鷲見が『遊覧と名物』の主筆として紹介されている。(注8)鷲見は『遊覧と名物』という雑誌に深く関わっていたようだ。

 『遊覧と名物』第5号第7巻(1926年7月)の奥付を確認すると、発行兼編集人は石川喜四雄となっているが、実際の雑誌制作には鷲見が大きく関係していたのであろう。上述のように、鷲見は『遊覧と名物』の前誌である『名物及特産』、『趣味と名物』にも投稿しており、これらの雑誌の出版元である名物及特産社と深い交流があったと思われる。『趣味と名物』第2巻第11号には、「毎號乍ら鷲見桃逸氏求軟文庫三浦おいろ氏(中略)の諸子に有益な御投稿を感謝して置きます。」と感謝の言葉が述べられていることから投稿の常連であったことが伺える。(注9)

 『遊覧と名物』以外にも鷲見は蒐集趣味関連の出版物を発行していたと思われる。『田舎』8号の寄贈御礼欄から鷲見は『田舎』を編集していた横井照秀にパンフレットを送ったことが分かる。このパンフレットの詳細は不明だが、おそらく鷲見の個人誌のようなものであろうと思われる。この資料は現在残っているかどうかは分からない。

 ところで、鷲見は新聞記者などの仕事をしながら蒐集や研究を行っていたが、いつごとから蒐集趣味を始めたのだろうか?上記の自伝では近所に土鈴を製作している工場があり、それがきっかけで蒐集を始めて郷土玩具の蒐集歴は「始めてからもう二十五六年にもならうか」と述べられている。鷲見の蒐集遍歴について、各地域の蒐集家のことを紹介した蒐集家名簿『和漢楽(わからん)』(注10)では、以下のように鷲見のことが紹介されている。

堺 鷲見東一氏
一、蒐集品は土俗玩具、名物票を主とし古文書、木判もの、古書籍、之に次ぎ宝船、燐票、何でも此頃流行の蒐集趣味品は殆んど何でもやっています。趣味としては土俗玩具の研究と読書であります。万巻の書を読破したいとおもっています。
二、何時頃からといふ事は明瞭しませんが、兎も角小学校へ行く頃・・・こう云ふと年齢が判るが・・・煙草のパンフレットやヒーローなどの中に写真の入っていた頃これを集め、それ以前から郵便切手などを集めていました。玩具や名物票を初めたのは大正の初め頃から、他はそれよりズット後のことで大正末年頃からです
三、動機と云っても別に特筆するほどのこともありません。何でも沢山集めることが好きでした。金なども集めたいと思っていますがこれ許りは何うも縁が薄くて集まりませんから、ふっつりこちらから縁を切らうと思っています。玩具や古文書等は間口は狭くても奥行が深いので研究するに非常に興味があるから好奇も手伝って之に入った譯です(一・蒐集分野、二・蒐集をはじめた時期、三・その動機。一部を筆者により現代仮名遣いにあらため、読みやすくなるように必要に応じて句読点などを追加した。)

鷲見がもともと郵便切手や煙草関係の蒐集からはじまり、次第に郷土玩具に関心が移っていったことが分かる。郷土玩具の蒐集をはじめたのは大正のはじめごろであるようだが、上記の自伝にあるように幼少期に住んでいた家の近くに土鈴をつくっている家があったので子供のころから郷土玩具に親しみを持っていたのだろう。

 鷲見は郷土玩具を中心としながらも様々なものを蒐集していた。『全国蒐印趣味家名簿』(注11)によると、鷲見の蒐集分野の詳細は「郷玩、名物票、古文書、軟派もの、日本手拭、帽章、スタンプ、新聞全紙、外国未使用ハガキ、杓子、箸、御守、煙草空箱、名物図其他何でも」となっており、蒐集領域は広い。名簿の表記から考えると、上記の「蒐集趣味はほとんど何でもやっています」は事実であろう。

 そして鷲見の蒐集趣味を充実したものとしていたのは旅行である。蒐集趣味もかねて鷲見は各地域を頻繁に旅行していたようで、鷲見の旅行好きは当時投稿していた文章にも表れている。『趣味と名物』、『遊覧と名物』には、タイトルから鷲見の各地域を旅行した経験に基づいて書かれたと思われる文章が掲載されている。たとえば、これらの雑誌で「北から南へ西へ名物行脚」という文章を鷲見が連載している。この連載の其十六(『遊覧と名物』第5巻第7巻)では長野県のことが書かれているが、長野の食、風景、民俗、商品に貼られているレッテルなど様々なところに話がおよんでいる。鷲見はこのように旅行を楽しみながら様々なものの蒐集を行っていたのだろう。上述した蒐集分野以外では、鷲見は各地域の民俗や方言も蒐集していたが、この関心は郷土玩具やこの旅行好きから生まれたと思われる。

 鷲見と他の趣味人とどのような交流があったのだろうか?いくつか例を紹介したい。郷土玩具関連では、冒頭で紹介したように鷲見は堺市出身である川崎巨泉と交流があったようだ。『おもちゃ絵』では、小谷方明は巨泉を支えたおもちゃ愛好家の一人に鷲見の名前を挙げている。小谷は民俗学の研究者として知られているが、蔵書票や郷土玩具の蒐集も行っていた。鷲見の没後『土偶志』第7期第2号に「小谷方明氏の多大の御好意により、白蔵主(筆者注:鷲見の版画と思われる)を掲載し、生前の氏を追慕する機会を得た」とあることから小谷と鷲見は深い交流があったのだろう。鷲見、巨泉、小谷は郷土玩具蒐集という趣味によってつながっていたと言えるだろう。

 民俗学関連では、上記で紹介した『土の香』などを発行していた加賀紫水と古くから交流があったようだ。上述のように、加賀の『国の礎』に鷲見はいくつかの文章を投稿しているが、この本は加賀が民俗学関連に関心を持つ以前に出版したものである。加賀は『土の香』発行以前から様々なものを蒐集していたが、蒐集趣味を通してこの時期から鷲見と加賀の交流は始まっていた。鷲見は『国の礎』の出版のために加賀に資料提供を通して協力したようで、加賀は鷲見に対して御礼を述べている。加賀が戦後編集した『百人一趣』下巻(注12)に収録されている加賀の「細道を回顧する」の中で「故人となられし(中略)鷲見東一(中略)を深く追悼する次第です」と追悼のことばが述べられており、加賀は鷲見のことを慕っていたようだ。鷲見は加賀に大きな影響を与えたように思われる。民俗学関連では、加賀の『土の香』発行以後の仕事が評価されているが、加賀と鷲見の交流がそれ以前にはじまっており、初期の民俗学の形成を検討する上で興味深い。 

4. 鷲見東一小伝②―鷲見の没年と堺人形の復興

 郷土玩具を主として蒐集趣味界の中心にいたと思われる鷲見の没年はいつごろになるのだろうか?鷲見の没年が確定する前まで私の中で2つの説があった。

 1つ目は敗戦前に亡くなっていたというものだ。この説の根拠は、上述のように加賀が戦後編集した『百人一趣』で追悼のことばを述べているからだ。2つ目は戦後も生きていたというものだ。ざっさくプラスによれば、鷲見が『奇譚クラブ』昭和27年8、11月号に投稿している。上述のように鷲見の蒐集分野に「軟派もの」が含まれているため、カストリ雑誌である『奇譚クラブ』に投稿していたとしてもありえない話ではないだろう。

 2つの説はどちらが正しいのだろうか?結論を述べると、前者の敗戦前に亡くなっていたという方が正しい。したがって、『奇譚クラブ』に投稿している「鷲見東一」は同名の別人である。『土偶志』第7期第2号に、「鷲見東一氏を悼む 七転八起常に玩界の後輩と自遊せられた同好の大先達鷲見東一氏の訃報に接し謹んで哀悼の意を表す」とあるので、この号が発行された1942年8月までに亡くなっていたことが分かる。第7期第1号の発行は1941年9月でこの号に鷲見は「堺玩信」を投稿しており、この文章を5月27日に書き終えている。そのため、1941年5月から1942年8月の間に鷲見が亡くなったのではないかと推測できる。

 この時期の『鯛車』を調べてみると、鷲見が亡くなったことについて6巻5号(通巻53号、1942年5月発行)の会報欄に以下のように載っているのを発見した。

鷲見桃逸氏 三月二十四日脳溢血にて逝去さる。曽て大阪今日新聞、大阪万朝報の記者として健筆を揮はれしことあり、「遊覧と名物」の編集者としても知らる。往年、堺人形を復興して斯界に貢献さる。
(一部を筆者により現代仮名遣いにあらため、読みやすくなるように必要に応じて句読点などを追加した。)

鷲見が1942年3月24日に59歳で亡くなったことが分かった。『風土記』でも紹介されていたように、鷲見は堺人形(堺土人形)の復興が郷土玩具関係で主な業績として理解されているようだ。

 鷲見の堺人形の復興に関しては、『日本郷土玩具 西の部』武井武雄(地平社書房、1930年)の堺の土人形の紹介で以下のように述べられている。

堺の土人形 発祥は詳らかでないが、伏見の直系である事は明白で、文化文政の頃笹治某なる作者が現はれて其製作に当り、堺土偶の最盛期を醸したものであるが、当初殆んど伏見型の踏襲模作であったものを、漸次堺を背景とした独創に移り、海港のモチイフに依って蛸、鯛、海老、亀の類を作るに至った。以来幕末迄広汎な型が作られたが、明治に至って海運の便が鉄道に代へられ、堺の殷賑は次第に凋落に傾いたので土偶の運命まづ極まり、明治十四年頃を境として全く廃絶し去って了った。後四十五六年を経て同地の蒐集家鷲見氏が三代目笹治の隠栖を突止め、漸く型を得て辛くも盲目の老翁の記憶をたよりに復興に尽瘁じんすいしたのであって、種類に前掲魚族の外に蛸猿、海老負亀、海老負鯛、海老蟇、等の異種があり、尚お多福、支那人、随臣、布袋、達磨、鶏、福助、奥様、毛唐人、七福神等々、泥面は面型と瓦紋章とがあって総計五十に近い諸玩が世に出たわけである。惟惜しむらくは復興の製作を担当したのが前掲住吉の土偶作者北尾(筆者注:住吉人形の箇所で製作者として紹介されている北尾春記)であったため、住吉臭少なからず、堺の古趣を伝へ得た点幾莫あるや知るを得ない事である。(後略)(筆者により一部を現代仮名づかいにあらため、重要であると考えて部分を太字にした。)

上記に引用した文章によると、堺人形は伏見人形の系統であり、海産物のものがあったことが特徴であったが、堺が衰退するとともに堺人形も廃絶された。それを復興させたのが「鷲見氏」であるが、この人物が鷲見東一のことであろう。鷲見が堺人形の復興について述べた「堺の土人形」が『田舎』第2号に載っているので少し長くなってしまうが、以下に一部を引用してみたい。

土人形の製造を全く断念した住吉屋笹治方には沢山の型のみが残されて居った。之れが何か事ある事に邪魔になってならぬ、と言って捨てるには惜しい。別に他に利用の方法もないので石油箱に入れた儘久しく納屋の隅に放り込まれて居った。(中略)住吉人形の製造者北尾氏のあることに思ひ当たった住吉屋笹治氏は、久しく邪魔者扱いにして居った堺土人形の型をこの北尾氏に譲渡せんと交渉を進めたのは明治四十年頃のことであった。然し、(中略)そうした土人形などは到底販売の価値もなく、只々衰退の一路のみで辿っている際であるから笹治氏の交渉などに耳を傾ける気にはなれなかった。それで体よく断ったことは勿論であった。然し家にあっても邪魔になるのみであるから、細々ながらも製造を続けている北尾氏の宅にあれば何かの役に立つこともあろうと石油箱二杯を住吉の北尾氏に無理から持ち込んだためその儘貰って置くことは気の毒だと僅かの金を渡してそれなりになったのであった。(後略)

扨てそうして北尾氏の處へ持ち込んだ残りはなお笹治家に蔵されて居った。その中に土俗玩具の蒐集といふことが漸次盛んになって、廃絶せんとする郷玩を愛観するといふことが一種の流行となり、之れまで製造して居って、今は中止している古き製造家を探し求めて復興せしむるといふことも又流行して来た。堺の土人形もこの復興熱に伴って台頭して来たことは当然のことである。しかし如何せん、堺の土人形製造家であった三代目住吉屋笹治氏は数年前盲目となって之れが製造は絶対不可能となっていたのと、更に又同家の息子は東京に出て中等学校の教員をなし頻りに両親を呼び寄せんとしていた際ではあり、且つは相当の資産も出来たといふ関係から復興は見込のないことになったが、趣味家の事には此儘葬り去るに忍びず復興の熱望をするものが可なり多かったので、人を介してその原型の譲り受けを交渉したのが堺市向陽町の土俗玩具普及会であった。元より笹治方も不用のものではあり、将来これを使用の見当てもなく、又東京へ移住するには邪魔者でもあり且つは之れが譲渡を希望するものは土玩の蒐集家以外にはない筈であるのに、扨て譲渡の交渉となると骨董品か何かの様に考へたものか法外の価格を唱へ出したのであった。之れを住吉人形の北尾家に譲渡したのに比すれば二十数倍の高価ではあったが、当時の郷玩愛好家の情勢からこれを見れば、その高額を支払っても入手せねば溜飲の下らぬほど郷玩愛玩熱が勃興して居ったので、遂に之れが譲渡を受けて前記住吉の北尾方に託して製作せいしめたところ、その色彩が全く住吉人形を髣髴たるもので堺の土人形といふ感じを全く没却し混同され易い関係があったので、その後は土俗玩具普及会にて直接製造をなし色彩の如きも三代目笹治氏の口伝により努めて旧態を守ることを主眼としたが、その口伝による絵の具で現在得られないものが相当にあり旧態の儘を現はすことの出来ぬことは遺憾である。之れが現在堺市立商品陳列所などで盛んに売出されているものがこれである。(後略)(一部を筆者により現代仮名遣いにあらため、読みやすくなるように必要に応じて句読点などを追加した。)

鷲見の堺人形の復興は当時の郷土玩具ブームに沿ったものであったことが分かる。ブームになった故に堺人形の型が高騰する、堺人形の色彩の復元が厳しいなどの課題があったが、鷲見は堺人形の復興に成功した。しかしながら、鷲見は復興した堺人形を「旧態の儘を現はすことの出来ぬことは遺憾」と評価しており、満足のいくものではなかったようだ。武井も上記に引用した本の中で鷲見の復興の仕事を「取材郷趣濃厚でありながら稍々冷めたいの咸伴うものがあって、成果は隻手を挙げる程に至らなかった」と評価しており、鷲見の評価に近い。当時の郷土玩具蒐集家の間での堺人形の評価はこのようなものであったと思われる。

 上記のように鷲見、武井は郷土玩具は昔のままの状態であるべきという考えを持っていたようだ。一方で、『おもちゃ絵』によれば、同時代には伝統を守りつつも現在の玩具製作者の創意工夫を反映した郷土玩具を製作するという対照的な考えも存在した。これは郷土玩具が必ずしも昔のままの状態である必要はないという考えにも言い換えることができるだろう。この考えを持っていたのは有坂與太郎、巨泉である。鷲見は巨泉と交流があったが、両者の郷土玩具に対する考えは異なっていたようだ。

 その後、鷲見の復興した堺人形はどうなったのだろうか?『風土記』によると、鷲見の復興はごく一部の趣味家相手のもので一時的なものであったが、その後堺人形の伝統は以下のように引き継がれたようだ。

(前略)昭和初期になると、古い湊焼の窯元である西湊町の津塩政太郎氏によって引きつがれ、かずかずのよい土鈴や、小型の土人形作りが行われ、同市材木町の金田新平氏も住吉大社の干支物授与品が中心であったとは言え、かつでの住吉人形の復元を行って土人形作りを行った。又、土鈴作りは津塩氏のほか御陵道の滝野紫雲斎氏なども行い、それに、堺の南東の郊外にある「鈴の宮」で有名な蜂田神社宮司の浅田七五郎氏によって数々の優品を作り出されて来たのである。

『浪速おもちゃ風土記』P413

しかしながら、堺人形はその後再び廃絶してしまった。Webで閲覧できる日本全国郷土玩具バーチャルミュージアムによると、上記に言及されている津塩政太郎、金田新平が昭和50年頃(1975年頃)亡くなり、堺人形は廃絶したという。現在でも廃絶したままなのだろうか?(注13)

5. 残された課題―執筆目録と伝記的事実の確認

 上述のように鷲見の生涯に関して、参考資料を引用しながら簡単に紹介したが、あたらめて鷲見のことを辞典に立項する形式でまとめると以下のようになるだろう。なお、読み方は「すみ・とういち」である。(注14)

鷲見東一 すみ・とういち 1883~1942年 岐阜県出身。「大阪万朝報」、「大阪今日新聞」で新聞記者をするなど様々な仕事をするかたわらで大阪・堺を拠点として様々なものの蒐集に没頭した。特に郷土玩具の蒐集・研究に力を入れ、堺人形の復興につとめるなど郷土玩具界に貢献した。加賀紫水の『土の香』、横井照秀の『田舎』、浜島静波の『多納趣味』、『京都寸葉』、『土偶志』、『鯛車』など各地域の趣味誌、民俗学、郷土研究関連雑誌に様々な文章を投稿する一方で自らも『遊覧と名物』の主幹となり、各地域の趣味人と交流を行った。筆名に鷲見桃逸、鷲見登位置などがある。

 今後の課題としては、鷲見の執筆目録の作成があるだろう。しかしながら、鷲見が主に投稿していた雑誌は部数が少なく保存されにくい趣味誌であるので、資料へのアクセスがたいへん難しい。趣味誌は各地域の研究機関や図書館でもまとまって所蔵されていないものも多く、雑誌の保存状態が悪い、もしくは現在では残っていないという可能性も考えられる。これらの調査をどのように進めていくかが課題である。研究機関や図書館にないものは、日本の古本屋やヤフオクなどのWeb上での購入、週末各地域で開催される古本即売会への参加を通して地道に集めていくいかないであろう。

 第2章で紹介した鷲見の投稿していた雑誌でさえまだまだ不完全である。どれほど不完全であるかという例を挙げると、本小伝の公開直前に入手した雑誌に鷲見が投稿しているのを発見してあわてて追加した位である。戦前に発行された趣味誌を調べれば、まだまだ見つかるであろう。本小伝をここまで読んで下さった方々のご教示を待ちたい。

 また、今回は鷲見の趣味誌への投稿を中心に調べたため、生涯を簡単に紹介する程度になってしまったが、鷲見の文章を読むことで彼の仕事や伝記的な事実の掘り下げも進めていく必要があるだろう。趣味誌には、その月に開催された会合や蒐集品の頒布会などが行われた記録が記載されているので、この記録を確認することでまだまだ分かることもあるだろう。今回は簡単になってしまったが、鷲見は戦前の郷土玩具界に大きな貢献をした人物であるため、鷲見がこの領域でどのような仕事をして、どのような評価をされたのかということの詳細の検討も必要であろう。さらに鷲見の交流関係もあまり紹介することができなかったので、鷲見の交流関係の詳細の検討も必要であろう。

 特に鷲見が浪華趣味道楽宗、娯美会など大阪を中心に活動していた趣味人たちの団体に参加していなかった点に疑問が残る。世代的な問題であるとも考えられるが、たとえば浪速趣味道楽宗に鷲見よりも上の世代の巨泉が参加していたことを考えると世代的な問題ではなかったようにも思われる。(注15)上述のように鷲見は巨泉と交流があったので、巨泉に依頼すれば入ることができたであろう。参加しない理由が何かあったのだろうか。

 いずれの課題に対しても問題になるのは資料へのアクセス手段である。上述のように趣味誌は保存されていない、もしくは保存されていたとしても状態が悪いため、資料の保存、アクセスを容易にするという観点から資料のデジタルアーカイブ化を進めることが今後ますます重要になってくると思われる。

6. おわりにーなぜ忘れられたのか?

 最後に鷲見はなぜ忘れられたのか?ということを考えていきたい。1つ目に考えられる理由はまとまった著書を出版していないからである。ここで言う著書とは洋式に製本され、まとまった部数が出版されたものを意味しており、書店で並んでいるような本をイメージしていただければ問題ない。『解題』では、鷲見は『名物及特産』に投稿していること、鷲見が編集したとして上記に紹介した「全国おもちゃ大番附」を発行したことが述べられているのみである。(注16)そのため、鷲見は郷土玩具関連文献を調べる際にあまり参照されなかったのだろう。これまで見てきたように、鷲見は多くの文章を投稿して自分の雑誌も編集していたが、多くが後世に残りにくい雑誌という媒体であり、特にミニコミ誌である趣味誌の多くは散逸してしまった。

 2つ目に考えられる理由は、一部が繰り返しになってしまうが、蒐集家は記録に残り辛い、記録を調べ辛いからである。『昭和前期蒐書家リスト』(トム・リバーフィールド様編、2019年)の書物蔵様の解説によると、本の歴史を調べていると出版(生産者)や小売り書店(流通)の話は分かっても読者、蒐書家(受容者)の話が資料の制約でなかなか分からないという。同じことが蒐集家にも当てはまるのではないだろうか。たとえば、郷土玩具の歴史を調べると郷土玩具そのものの歴史は辞典があるので比較的分かりやすいが、それを蒐集していた趣味人を調べようとすると難しい。趣味誌や関連名簿を調べる必要があるが、これらの資料は散逸しやすく、残っている資料もアクセスの困難さがある。

 では、民俗学の領域ではどうだろうか?鷲見は民俗学関連の文章も多く残しているが、柳田国男により学問的な研究と好事家的な趣味が明確に切り分けられた時に鷲見は後者の側であると考えられてしまった。そのため、彼の文章は柳田の考える民俗学から排除されてしまったのではないかと思われる。

 以上に鷲見の忘れられた理由をいくつか推測したが、そもそも蒐集趣味や趣味人たちは大学や研究機関で営まれている狭い意味での研究=学問の対象になりにくいのではないだろうか?趣味やそれを享受している人々はどうしても学問という枠組みの中に入れられ辛い。しかしながら、最近では在野研究や独学が話題になっているため、広い意味で研究と言える蒐集趣味やその担い手である趣味人たちを先行者と考えて研究される可能性もあるだろう。(注17)

 以上で拙いながら鷲見の紹介を終わりにさせていただきたい。今回の記事がきっかけとなって鷲見の研究が少しでも進めば幸いである。上述したが、特に不足している書誌情報があれば、遠慮なくご指摘いただければと考えている。

 また、趣味人の関連資料に関しては、資料が国会図書館や各地域の図書館にあるにも関わらず死蔵されている場合も多い。これらの資料の活用を通して鷲見に限らず趣味人たちの調査が今回の記事で関心を持った方々によって進めばさらに幸いである。

注釈

(注1)以下の辞典を調べたが鷲見は立項されていなかった。

『日本郷土玩具事典』西沢笛畝(岩崎美術社、1965年)
『郷土玩具辞典』斎藤良輔編(東京堂出版、1971年)
『日本人形玩具辞典』斎藤良輔編(東京堂出版、1997年)
『日本人形玩具辞典』日本人形玩具学会編(東京堂出版、2019年)

(注2)『加良久利』に関しては、以下の記事を参照。

(注3)『堺市案内記』(堺市、1928年)

(注4)鷲見の住所に関しては、大阪中之島図書館様よりご教示いただいた情報に基づく。

(注5)調査する際に次世代デジタルライブラリーを使用した。

(注6)『日本缶詰史』第2巻山中四郎(日本缶詰協会、1962年)より。缶詰開缶研究会は缶詰の品質を検討する研究会である。

(注7)『昭和六年版日本新聞年鑑』

(注8)上記の鷲見の投稿していた本のひとつとして紹介した『国の礎』加賀紫水(旭櫻趣味会、1927年)の加賀の鷲見の紹介より。「御愛読趣味家鑑」は復刻版が附録として『おもちゃ絵』に収録されている。ヲガクズ様(Twitter:@wogakuzu)よりご教示いただいた。

(注9)大阪府立中之島図書館様よりご教示いただいた情報に基づく。

(注10)『和漢楽(わからん)』(和漢楽、1930年)に関しては、以下の記事を参照。この名簿は各地の蒐集家の蒐集分野、蒐集をはじめた時期とその理由が紹介されている。

(注11)『全国蒐印趣味家名簿』今井源之助編(神戸スタンプ同好会、1936年)に関しては、以下の記事を参照。

(注12)『百人一趣』加賀紫水編(土俗趣味社、1946年)の詳細は以下の記事を参照。私も上下ともに現物を持っている。

(注13)日本全国郷土玩具バーチャルミュージアムはWebページ「草の根工房」より閲覧可能。(Webリンク:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hds30/index.html

以下の「ねこれくと」によると、廃絶後に津塩吉左衛門により製作されていたが、2021年4月時点で不明であるという。(Webリンク:http://www.nekorekuto.com/books/sakaiminato.html

(注14)大阪府立中之島図書館様よりご教示いただいた情報に基づく。『趣味と名物』、『遊覧と名物』に「トウイチ・スミ」の名前で投稿されたいくつかの記事が確認できる。

(注15)『おもちゃ絵』

(注16)『解題』では、『名物及特産』が『名物と特産』と表記されている。

(注17)たとえば、『独学で歴史家になる方法』礫川全次(日本実業出版社、 2018年)、『在野研究ビギナーズ―勝手にはじめる研究生活』荒木優太編(明石書店,、2019年)、『独学大全』読書猿(ダイヤモンド社、2020年)『在野研究ビギナーズ』に関しては、以下の記事で紹介したことがある。『独学大全』はベストセラーにもなり、特に話題となった。

※一部の敬称略
※Webページの最終閲覧は2022/6/5

<文章中に引用しなかった参考文献>

「玩具と帝国:趣味家集団の通信ネットワークと植民地」鈴木文子『文学部論集』(93)(佛教大学文学部、2009年)

「おもちゃ絵画家・人魚洞文庫主人川崎巨泉のおもちゃ絵展とその画業の周辺について」森田俊雄『大阪府立図書館紀要』(36)(大阪府立中之島図書館、2007年)

<御礼>
以下の方々に今回の調査にご協力いただいた、もしくは日々有益な情報を積極的に発信されており、参考にさせていただいておりますので、あらためてこの場で御礼を申し上げます。

大阪府立中之島図書館様
堺市立中央図書館様
神保町のオタ様
MR様
ぬりえ屋様
ヲガクズ様
WATANABE様

よろしければサポートをよろしくお願いいたします。サポートは、研究や調査を進める際に必要な資料、書籍、論文の購入費用にさせていただきます。