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本山桂川が編集していた雑誌『史談と民俗』と『談叢』廃刊の謎

 以前以下の記事で本山桂川が編集していた『談叢』という雑誌のことを紹介してこの雑誌のことはあまり分かっていないということを述べたが、同じく本山が編集していた『史談と民俗』という雑誌に『談叢』のことが載っているのをみつけた。『史談と民俗』第一冊の書影に関しては、以下に写真を掲載したい。国会図書館サーチによると、『談叢』と『史談と民俗』が発行されたのは本山が長期間発行していた『民俗研究』が1933年に終刊になって以降である。

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この号の「謹告」には、『談叢』に関して以下のように述べられている。

曩に「談叢」年極読者各位に対しては身辺の内情を具して御報申上ました通り幾多不測の厄難に遭遇し引続き尚紛争を重ね当分続刊の見込み相立たなくなりましたので断然神田の発行事務所を閉鎖し「談叢」の発行を中止することに致しました。(中略)「談叢」消滅、即時本誌の新生です。(中略)「談叢」年極会員各位には引きつづき本誌を月刊配本して其の責の一端を果たすことをお許し下さい。但し「談叢」創刊号誌代は一切頂きません。(中略)発行所は日本民俗研究会です。振替口座は又無くなりました。今後は談叢発行所といふもの全く存在いたしません。

『談叢』が何らかの事情で発行できなくなり、『史談と民俗』が『断叢』の後継の雑誌として日本民俗研究会から発行されるようになったことが分かる。「『断叢』創刊号誌代は一切頂きません」という記述から『談叢』は創刊号が出版されたが、それ以後継続できなかったということが推測できる。

 上記に一部を引用した「謹告」では、本山が読者に健康を心配されていたことや「家族の者も健康をとり戻し」と述べられていることから『談叢』が継続できなくなった理由のひとつに本山や本山の家族の健康問題があったことが推測される。

 しかしながら、後継の『史談と民俗』第一冊の発行は1934年10月であり、『談叢』の発行された1934年7月(注1)と時期的にかなり近いが、健康問題のみであれば発行が遅れることがあったとしてもおそらく『談叢』の継続は可能であったであろう。そのため、『談叢』が継続できなくなったのは別の理由もあったように思われる。気になるのは、『史談と民俗』は発行所が「神田の発行事務所を閉鎖し」て、談叢発行所から日本民俗研究会になっている点である。発行所関連で何らかの問題があったのだろうか。上述の「幾多不測の厄難に遭遇し引続き尚紛争を重ね」とは何を意味しているのだろうか。復刻版『土の鈴』(村田書店、1979年)の別冊に付属している本山の略年譜を確認しても、この時期の本山の動きに関しては何も記載されていない。この時期の本山の活動が気になるところだ。

(注1)上記の記事に引用したWeb上の書誌データを参照した。


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