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蒐集趣味人・若林壽之助と山崎翠紅の蒐集遍歴

 以下の記事で関西で活躍した趣味人の年賀状を紹介したが、紹介した年賀状に若林壽之助と山崎翠紅のものが含まれていた。

山崎に関して、神保町のオタ様の以下の記事から宝船の蒐集家であったことが分かったが、若林と山崎のことが以前紹介した『和漢楽(わからん)』(和漢楽、1930年)という蒐集家名簿に載っているのを見つけたので紹介していきたい。この名簿は各蒐集家の蒐集分野だけでなく蒐集を始めた時期や理由も述べられているので、若林、山崎の箇所を引用してみたい。

京都 若林壽之助氏
一、趣味品一切、殊に宝船、変態書籍、小品物
二、大正七年頃より納札蒐集に初まり、祝儀袋、宝船木版画、乗車券、絵葉書と趣味品紙屑一切
三、少年の頃より絵葉書を蒐めしより蒐集趣味を味はひ、スタンプ蒐めより動機発す(一部を筆者により現代仮名遣いにあらためた。)

京都 山崎翠紅氏
十二三の頃の私は毎日曜にには社寺の印を受けに行く事が一つの仕事でした。一ヶ所で一二枚押すのではなく五枚或ひは七枚づつも押して貰ふので父はそれを遠方の友と交換していました、父は郵券や記念絵葉書やスタンプも好きでした、私製ハガキに名物票を張り名物の印や旅館の印を押して交換しておりました。
現在残っている中の珍品は中山道の旅館の引札(明治以前のもの)を画ハカキに仕立てたものいろいろ約三十枚斗りのものです。この期間は明治三十五年頃より大正五年位までです。京都で宝船の盛になった動機は大正二三年の頃、猪熊信男氏、明石染人氏等が昔から正月に宝船を枕して初夢を見、その年の禍福、吉凶を占ふ習しがあるの、この画も追々煙滅しかけている今の内に集めて保存して置かなければ手に入らなくなるであろうと雑誌に新聞に書かれたのが、初めで、ひいて大正六年田中緑紅氏が自邸で当時発行の宝船展を開催せられました。それは極めて数の少ないもので翌七年、第二回の時ですら些かに新発行を加へて三十五六枚でした。今迄東京の友達へ宝船を送ったり等していました吾等父子はスッカリ興奮して了ひました。以来十二年宝船に端を発した私の蒐集慾は年と共に広まり納札、古銭、藩札、宝船のついた藩札、玩具、錦絵、一枚刷、古版の時代宝船、時代下駄、時代簪、櫛、風画、人形、双六面、名物食器、と手当り次第に掻き集め、目が肥へるに従って一品々々の値も高まり今では却而困つております(一部を筆者により現代仮名遣いにあらため、読みやすいように必要に応じて句読点を追加した。)

若林は軟派文献も蒐集していたようである。山崎は田中緑紅の宝船頒布会がきっかけとなって宝船の蒐集をはじめたようである。雑誌記事索引データベース「ざっさくプラス」によると、山崎は田中の『郷土趣味』20号に投稿しており、郷土趣味社とも関係があったようだ。


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