『わたしは最悪。』不器用に理想を追い求める彼女は人生の傍観者か?
人生にはライフステージに応じて様々な転機が訪れる。
それは受験や就職だったり、人によっては結婚、出産だったりする。どれも人生の行く末を大きく左右する出来事だ。手元にある無数のルートと比較しながら、何年もの月日をかけて人々はそれらの決断を下していく。それにも関わらず、人によっては選択後に大きな違和感を感じたりするものだ。どこで掛け違えたのか、この人生はこれでいいのか。若干のしこりを心の片隅に抱えつつも、理性を持ち合わせた大半の人々は「こんな人生も悪くないな」なんて何度も自分に言い聞かせ、社会のレールから外れないように自分の選択を受け入れる。こういった大きな選択をやり直すのは往々にしてリスクが高い。
ただその一方で心に残ったしこりが肥大化し、行動に移さざるをえない人もいる。「ここではない場所なら輝けるはず」心の違和感を取り除きたい一心で自分の居場所や仕事、最終的には友人やパートナーさえも断ち切ってしまう。今ある環境をリセットすることが自分の可能性を広げる唯一の解決策だと信じてしまうのだ。かくいう私も日本の大学に在学していた時に理想の新天地を求め何度も中退を繰り返し、挙げ句の果てには海を越え、ロンドンまで飛んで行ってしまった人間であり、全く他人事ではない。隣の芝はいつだって青いのだ。
そんな経験のある人達はこの映画に共感できるかもしれない。
『わたしは最悪。』(2021)はスウェーデンのオスロを舞台に主人公のユリヤが様々な選択をしながら何者かになろうと奮闘する物語だ。
勉学で優秀な成績を収めていたユリヤは熱意や理想も持たないままただ漠然と医学部に進学する。案の上、自分が真に求めているキャリアではない事に気づくと、心理学に専攻を変更したり、唐突にフォトグラファーになったり、理想の自分を追い求めるままに目移りを繰り返す。その行動はキャリアに留まらず、人間関係にも及び、交際する人間もステージによって変えていく。自分らしくいられないと判断するや否や、心の中で徐々にその歪みが大きくなり、破裂したように唐突な別れを切り出す。行き当たりばったりの衝動的な行動は自分の心が主役になれる場を追い求め、もがいているようにも見える。
映画の中でユリヤの印象的な台詞がある。
「自分の人生なのに傍観者で脇役しか演じられない」
ユリヤは同居しているパートナーで漫画家のアクセルとの別れ話の中でそう吐き出した。この台詞に身に覚えのある人も多いのではないだろうか。本来人生は自分一人のものであり、圧倒的な主役である。けれども人は時に冷静になり、身近な人と自分を比較したり、俯瞰的に観察して、何も成し遂げていないように感じる自分の人生を嘆き、悩み、行き場の無い嫉妬に苦しんだりする。
成功を収めるクリエイティブなパートナーを目の前に、自分がその飾りにすぎない存在であるということをパーティーで悟ったユリアも同じ心境であっただろう。やること全てが明確で、確信を持って考えを言葉にできる彼に対して、感じることを優先し、不確実な考えに救いを求める彼女は対照的な存在だ。パーティーを抜け出し、温かくも冷たい夕暮れ時のオスロの街を見下ろすユリヤの背中は寂しい。
ユリヤの映画の中での設定は30歳だが、彼女の抱えている「何者かにならなければならない」という焦燥感は若い世代ではより一層顕著かもしれない。SNSの浸透と共に、芸能人でもスポーツ選手でも無い、限りなく一般人に近い"素人"の成功が可視化しやすくなったからだ。SNSを開けばショート動画で同世代のインフルエンサーが大金を見せびらかしている。デジタネイティブ世代の身近なロールモデルがインフルエンサーである現実はとても嘆かわしいが、これも時代の変遷であろう。常に何かを成し遂げなければならない空気感に晒され続ける若者の重圧は計り知れない。特にユリヤのように聡明で芸術の才能やセンスを持ち合わせているのにも関わらず、思うように芽が出ない人間はよりこのプレッシャーを感じやすくなっているはずだ。働き方や成功の選択肢が広がり続ける現代において、彼女の根底にある自信が選択をブレさせる。自分の持ち合わせた才能と理想像との間にギャップがあり続ける状況はさぞもどかしいだろう。
果たしてこの映画を観た人達はユリヤの生き方をどう感じるのだろうか。30歳という言い訳の利かない年齢になってもなお揺れ続ける彼女を哀れだと笑うのか、はたまた無責任な振る舞いの数々に苛立ちを覚えるのか。
私はそのどちらでもなく、この映画のどの登場人物よりもユリヤが人間らしいと感じた。理想のルートを寸分の狂いもなく辿る人生も素晴らしいかもしれないけれど、どこか味気ない。自分らしく生きていくということは時にとても不恰好で滑稽で無様に見えることもあるけれども、自分の心に現実がフィットするまで寄り道を続ける人生があってもいいじゃないかと私は思う。何かとはっきりとした正解が求められ続けるこの世の中で、曖昧な感情や嫉妬、後悔を感じながらも理想を追い求める行為そのものが自分を人生の主人公足らしめるのではないだろうか。
ユリヤは物語の最後にどう生きていくことを選択したのか、是非映画を観て確認して欲しい。私は彼女の不器用な生き様に自分を重ねながら今日も一人制作を続ける。