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山中瑶子「ナミビアの砂漠」

死んだ微笑みで場を取り繕う河合優実がすったもんだの末、彼にだけ最後に見せる生きた笑顔を見逃してはいけない。きっとあらゆる姿をさらけ出してぶつかり合ってそれでも一緒にいられる誰かとのなんでもない時間に感謝する。
圧巻だ。まさしく現代的である。圧倒的な現代の生命感に溢れている。それは死んだように生きている名もなきライブ感。生の躍動のなか常に匂い立つ死の気配は冒頭ファーストシーンの会話から蠢いている。
彼女は何にでも関心を持つが、どれにも興味などない。他人のどうでもいい会話に耳をそばだてながら、友人のなんとなく耐えがたい不安にも心を傾けている。見るからにテキトウな相槌を打つ河合優実のまなざしは恐ろしいほどに真剣だ。
彼女がスクリーンから解き放つもの、それは紛れもなく「死」なき生の倦怠感であり、抗うことのできない「生」に付き纏う死の臨場感だ。“平和で豊かな日本”(これが既に嘘であることも作品は喝破している)で、今に生まれて今に生きているということの、破壊的なまでに不自由で、だらしないほど自由な、生を保障されながら死と隣りあって生きる世界。
そう。不毛なのだ。まるで死んでいくために走り続けるマラソンである。彼女たちはまだ若く、老いは遠く、その終わりは見えない。でも確かに、自らの生は身体を伴ってゆるく共にありながら、他人たちを通した死はいつもどこかでその心をむしばみながら燻っている。
だからまるでそんな死を突き飛ばすように無秩序で、不義理で、非道徳なときだけが彼女が彼女として生かされているのだと証明するようである。甘く優しい愛すべき彼氏の手心に返す気のない返事や、息をするように吐ていく嘘、客という物を相手に機械的に繰り返すだけの職務上の気づかい、縁もゆかりも無い赤の他人たちにしなければならない良い大人としての振る舞い。
わかるだろうか。彼女は実のところ本当によくできた「良いオトナ」なのだ。二股をかけながら寄生している寛一郎や都合よく甘えさせてもらう金子大地に対して彼女はあからさまに「悪いオンナ」であるのかもしれない。だが、それは彼女が付き合った男であり、付き合おうと思った男たちへの態度だ。
彼女は間違いなく、一度会ってもう二度と会わないような他人たちや、社会で生きるうえで従わなければいけないルールといったものに対しては、あくまでも「良いオトナ」なのである。不必要に誰かと争うまでもなく、必要以上に自分を見せることもせず、できるかぎり心をなくし、機械の一部に徹して、人間的なコミュニケーションの必要を求められたと察したならば、すみませんを合言葉に愛想笑いでやり過ごす。やり過ごせるだけの大人としての勘と経験、すなわち社会性がある。
しかし現代人とは社会のなかでのみ暮らしているものだろうか。違う。それゆえに彼女は金子大地と一緒にいる姿を見て挨拶をしてきた隣に住む唐田えりかの振る舞いを見て「あの人は私たちのことわかってるみたいだね」と言うのだろう。
目一杯の愛をくれて、全てを自分で背負ってしまう寛一郎との間ではありえなかったケンカは、ある日を境に金子大地との間ではまるで日常の光景となる。彼女の甘えと彼氏の拒絶。自分のことに集中したい彼氏も、自分をないがしろにされたくない彼女も、どちらも正しく、どちらも間違っている。まるで互いへの思いやりや想像力、気づかいとはかけ離れたやりとり。さながら子供のケンカだ。理由もバカらしくて解説するのもアホらしい。
それゆえに、あとになってそんなどうでもいいケンカがとても貴重な、まるで一人と一人が一人と一人のまま二人で暮らしていくための儀式であったかのように振り返ることができる。
そうわかるのは、都合のいい嘘で塗り固められた「良いオトナ」であることに擦り切れて彼女が仕事を放り出し、いわば社会的必要性という個人の人生においては非生産的なステージから降りてみせたからだ。すなわち金子大地とのルーティーンな大激闘を自ら眺める河合優実の姿にあるとおり、現代において生きるということはあらゆる角度から他人という照明がスポットを当てるなかダイエットを続けさせられているのに自分はスナック菓子を食べるていることに他ならない。
社会という檻の中で生きている限り、人は生きて生きて走り回るほど他の生きているものにぶち当たり、常に誰かに見られて、誰かに関わられて、それをあからさまに拒絶するほどに強くはなく、簡単に許容できるほど弱くもなく、誰に打ち明けられるでもなく人知れず傷つき、かといって今すぐ死ねるほど病めるわけでもなく、何か食べたいものがあるわけでもないのに腹が減るから何か食べてるのでとりあえず生きていて、都合のいい相手も使い勝手のいい相手も必要だし、一人は寂しくて二人は面倒くさい。こんな生命を不毛と言わずして何なのだろう。
かつて国を拓いて歴史を紡いで文化を醸成し子を成して生み育て養い続けるために社会で生きることに目標があって誰かと生きることに目的があった時代などはとうに過ぎ去った。なんとなく生まれなんとなく生きていてなんとなく死にたい時代。こんなにも物語の内容と重ならないタイトルながら、こんなにも作品の内実に響き合うタイトルがかつてあっただろうか。(この作品で不当に貶められているのはナミビア共和国だけかもしれない)。
不毛な環境、不毛な時代、不毛な生命。しかし河合優実=カナが暇があるごとに眺めているどこか砂漠の定点観測にあるように、果てしない砂の大地にも生き物は存在して、それらなりのライフスタイルを形成して、それでもなんとか生きている。そして集まるのだ、水の湧く場所へ。生きていくためにではない、生きているからだ。
砂漠に生きて喉の渇いたものが水を求めずにはいられないように、生きている以上はいつかやってくる死への道のりとして生きていくことには苦痛がつきまとう。だから苦痛を和らげるためには生きるための行動を取り続けなければならない。暑さや渇きといった砂漠の中で生きていれば必ず訪れる死への段階的に増していく苦痛を一つずつ取り除くために、体を冷やしたり水を飲むという生きるための行動を取るのであって、死にたくないから生きているのではない。
これは本能の問題だ。“平和で豊かな日本”という現代という社会こそが「ナミビアの砂漠」なのであり、そこに生きる若者たちも、砂漠のなかの水場に集まる動物たちと同じである。何のために生まれてきたわけでもなく、何のために生きるでもなく、それでもそこに生まれてきてそこで生きているので、喉は渇くし、腹は減るし、体はケガするし、心は満たされない。蛇口をひねれば水は出てくるし、こだわらなければ食べる物はなんでもあり、階段を踏み外してもちゃんと治療してもらえて、カネを払えば誰でもチヤホヤしてくれる。
きっと何でも手に入るから何も得ることができない。不毛。一時は得ても、きっとまた失う。だからまた求めてしまう。でも本当に欲しい、生命としての安らぎだけは手に入らない。環境に適応すれば生きやすいのかもしれないが、単に環境に従順になることでは生きられないのが人間という生き物のこの上なく面倒くさい本質ではないか。
スタンダードサイズというこの映画のスクリーン環境狭しと自由奔放縦横無尽に暴れまわる河合優実の姿を見て不義理だ不道徳だ不誠実だと罵ることは簡単である。確かにそうなのだから否定はしない。
しかしそんなことを言う人たちこそ良心的な現代という病、良識的な社会という呪に苛まされて我を忘れていないか?共感や思いやり、相手の立場になってものを考えてみろという善良なるファシズムが蔓延して誰もが他人を、あるいは自らさえも押し殺しているようだ。
誰だって子供の時は欲しいものが手に入るまでは人の目なんてかなぐり捨てて暴れまわったものだろう?回想どころか成人している登場人物たちの子供時代がつまびらかに語られることはこの映画のなかにはない。
しかしバーベキューの終わりに金子大地の両親と思われる二人がアメリカに生まれ日本に帰国しながら親の望んだインターナショナルスクールを断固拒否した彼の子供時代を回顧するように、あるいはカウンセラーが河合優実との会話にあった例としてだらしない父親に対する彼女の生理的嫌悪を彼女自身のどんな人でも人として尊重すべきという常識的見地が否定してしまう癖があったように、またもしかしたら執拗に彼女の世話を焼きながら甘々に甘やかしていた寛一郎の不必要なほどの滅私的な他人への寛容さと上司に無理矢理誘われて風俗に行ってしまった自身を攻めまくる己への不寛容さとがあるように、彼女は、彼は、明らかに誰かにとっての「良い子」であろうとしてきた人間なのであり、それと対照的に金子大地は親であっても他人という目を気にせず、顔色を伺うことなどせず、生きてきた人間なのだ。
もちろん河合優実の自己の生理感覚に対する自身への常識的束縛によってあるいは親や職場の人間のように一緒に生活する上で助かってきた大人たちはたくさんいるだろうし、寛一郎の寛容さと不寛容さという名の優柔不断さで生きるのに助かってきた河合優実のような人も一緒に働くにはありがたかっただろう職場の上司たちもたくさんいると思う。そしてもちろん金子大地の身勝手さによって堕胎して一生の傷を背負った、現れることなき元カノがいたであろうことも事実だ。
しかしそれらは彼女たち、彼らを取り巻く他人たちの事情でしかない。あるいは彼女たちなりの思いやりの産物であり、勝手なのかもしれないが彼なりの事情である。
少なくとも、こうあるべきという価値観、社会性に押し潰されて一人の女を愛する男としての格好をつけきれず寛一郎は膝から崩れて慟哭し、河合優実は仕事で言ってはいけないことを口走るほど自分を抑えられずに心をすり減らすわけで、そんな赤の他人たちへの思いやりという倫理観や道徳、常識に縛られてなかった金子大地だけが、有り体に言って彼氏持ちを寝取り彼氏との別れを求める男はクズなのだが、結果的に河合優実にとっての救いとなるのは、まさしく道徳と倫理で荒涼とした現代社会という砂漠において、そこで生きてきて傷ついていた河合優実にとって、嘘偽らず魂をさらけ出してぶつかってくるし、ぶつかれるような彼こそがオアシスたるべき存在だったという初めから用意されていた回答だったのかもしれない。きっと誰もがサンドバッグが欲しいんじゃなくて、スパーリングの相手が欲しいものなのだ。
相手を甘えさせるという行為は人の魂を飼いならすことになるのに、誰かに甘えるという行為はどこかその人の魂をさらけ出すことに繋がる。すなわち優しく常に気を配って味方でいてくれる寛一郎の前では河合優実はまた良き彼女であり良き人間であらねばならなかった。
それは彼女が勝手に感じているプレッシャーであり自縄自縛の自作自演な「彼氏にとってかわいい彼女」に過ぎなかったかもしれないし、きっとそれゆえに浮気にしろ家出にしろ彼から逃げる時間が必要だったのであり、そんな強がるゆえの弱さでさえも寛一郎はわかっていたんだと、生きることに傷ついてるけど傷ついてないように振る舞う河合優実をやはり「甘えさせ」ようとしているのだ。
なぜなら彼は傷ついてる彼女を癒したくて優しいから。しかしそれは他人を手のひらで寝転がすことじゃないのか?女性は、いや人間は、他人の手のひらの上で寝転がらされることに自由を感じて心から溌剌と生きられる動物ではない。
誰だってそうだろう。どんなに快適でも誰かに寝転がらされる不自由より、険しい道のりでも自分から人は寝転がりにいくものであって、他人の優しさが自分を救うわけではないのだ。すなわち、甘えたいけど、甘えさせてほしいわけではない。振り向いてほしいけど、ずっと見ていてほしいわけではない。人はその人以外の誰でもなく誰のものでもないという当たり前の事実が彼女にも彼にも当てはまる。
河合優実は寛一郎と付き合っていたけれど本当に一人の人間同士として向き合えていたわけではない。対して金子大地は我儘で横暴で簡単には河合優実に優しくあるわけではなく、まずはクリエイターとして自分自身の人生を生きることに向きあっている。だからこそ河合優実はありのまま我儘に横暴に彼に対して甘えられる。それを安易に受け入れないどころか、むしろ真正面から金子大地は立ち向かい、否定することで受け止める。だから河合優実もきっとようやく、出自や、家庭や、環境や、そんなもの気にせずに、自分を生きて、相手に向き合えるのだ。
世間一般が考えるコンプライアンスもフェミニズムも関係ない。それは「良いオトナ」の仮面をかなぐり捨てて真に人と人とが「悪いコドモ」に戻るように魂をぶつけて会話するラブバトルである。本当に互いを思い合ってるのに、ケンカでしかそのことを表現できないプロレスである。その先にこそ互いにかすかだが確かな情は芽生え始めるのだろう。
それこそきっと山中瑶子が描き出す良心と良識に束縛された社会に一発かますとんでもないアナーキックな愛であり、現代という砂漠のなかで存在するかもわからない安らぎを求めて彷徨い生き続けることを強いられた人々にわずかながらの希望を見せる137分という長い長い旅路の果てのささやかな幸せだ。
きっと他人のために生きることに疲れたのなら、いつか誰もが河合優実に、金子大地に、本当の自分自身になってみてもいいのかもしれない。他人のために泣きながらまずい飯を一人で食うのはもうこりごりなんだ。世の中で生きることに疲れたのなら、そろそろ幼いままの我儘な強い自分に戻って、他人の目を伺って成長して弱いまま大きくなった自分とさよならをする必要がある。きっとそのとき、誰かと一緒に捨ててもいいようなどうでもいい飯を食って、うまいねと心から少しだけちゃんと笑える気がする。
社会を、現代を、今それなりに「ちゃんと」生きている人たち、時代なりの幸せを見つけられてる人たちには縁のない映画だ。誰のためにも生きられない、誰かのためには生きづらい、自分のために生きるのも乗り気でない、はみ出しものたちのための傑作である。

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