ヴィム・ヴェンダース「まわり道」
脚本ですべてのことを書き記そうと、言葉ですべてのことは語り尽くせない。言葉を信頼するものだけが語り得る映画の豊かさだ。
一人で始まった旅が、やがて三人となり、四人となり五人となり、六人となり、そして一人また一人と減って、また一人になる。
いわゆる孤独を抱えた人々が成り行きで集まる共同関係。孤独の埋め合わせはまた誰かの孤独なのか。ヴェンダースの浮遊するキャメラが映し出すのはその間隙だ。
それは埋められない孤独と疎外感が並走する瞬間なのだろう。決して交わる瞬間は訪れない。なぜならそこにカタルシスやエクスタシーは存在しないからだ。
ただ互いが互いの言葉で己を語るときだけ彼らは密接する。まるでヴェンダースの作家としての矜持を示すようだ。
彼は不安や憂鬱がいかに個人に言葉というアイデンティティーを生み出すかを描き出す。痛みや傷、過去を語る彼らはいかにも饒舌だ。ゆったりと孤独な人々を捉えることで、言葉から言葉以上のものを、映像から映像以上のものを繁茂させる。
だからこそ崖の小道で行われる延々とした散歩は圧巻だ。過去や思考を断片的に語る個人には謎が生まれ、輪郭には陰影が帯びる。その秘匿性こそ彼らに人間たる尊厳を与えるとともに、観客に想像の余白をもたらす。
映画とは豊かなものなのだ!
だが人間関係というものは安心を与えながらどこか感情を落ち着かせる。わかりあえないとわかったときにこそ孤独は深まり思いが生まれ言葉で表現される。孤独の埋め合わせは言葉を生み出すものたちには薬であり毒だ。
だからこれは目的地までのまわり道。人生という旅の、あるいは創作という旅の「まわり道」なのだ。