
ヴィム・ヴェンダース「PERFECT DAYS」
日が昇り、そして沈み、やがて夜が来て、また日が昇るように。すべてが変わっていってしまう気もするし、何も変わってなどいないのだとも思える。
変わりゆくことはどこか悲しく。変わらないこともまたなぜか悲しい。でも変わることと変わらないこととの重なるところに人の生きるこの世界の温もりをまた感じる。口数の少ない役所広司の静かなる名演が多弁な感情を引き出しながら人と人との間に通う見えない心を銀幕に焼き付けるようだ。
人生は悲しく。世界はそれでも美しい。人々は身勝手で、誰もが優しい。愛は取りこぼしてきたものだから、取り戻せなくなってから気づけるものなのだろうか。
身につまされるところがありながら、身に迫るものの正体はわからないまま、役所広司と三浦友和による語らいには止めどない涙が溢れてしまった。
あとの祭りだなんて言うけれど、まさしくこれは祝祭的な映画だ。悲喜こもごもの人間の営みという社会の外縁で、なんだかそこから少しだけ外れてしまったような役所広司の目を通して触れていく何気ない日常は、何も起こってないようで、また常に何かが起こってるような、平穏さと忙しなさを称えている。
人が人と生きるということは祭なのだと思わされた。まるで、はちゃめちゃな陽気さを穏やかな静けさへとその姿を変えたフェリーニかと思わされる円熟のヴィム・ヴェンダース。
役所広司の目と、都度なにかを思い、目を細め、しわを刻む表情は、いわばその社会という祭を見守る温かな外部のまなざしだ。交わることはできない。関わることも難しい。しかし微笑みかけることはできる。これこそ映画体験である。
役所広司の圧倒的な他者性は、いつのまにかこの映画に集うものたちのわたくし性へと変化していく。何気なく過ごす日常、律儀にやりきる仕事、当たり前の日常の背景には、離れてしまったもの、傷つけてきたひと、もう戻れない場所、彼だけの地獄が陽炎のように揺らめき、常に影となっていつも彼の後ろに張り付いている。
それは語られぬものだし、きっと語りえぬものだ。だから観るものは、いや、人が人に出会うということは、その人間を想像することのはずなのだろう。
目を瞬かせる役所広司。柔和の笑みを投げかける役所広司。びっくりして目を点にする役所広司。思わぬことにニヤける役所広司。震えてうつむく役所広司。子供のようにはしゃぐ役所広司。泣いてるとも笑ってるともつかない顔で仕事へ向かう役所広司。
どの役所広司もが、あらゆる人生の場面にちりばめられた良かったこと、悪かったこと、生きることにつきまとう、もうどうしようもなくなってしまった影への想像を促す。
それらは想像をさせようとするものではない。誰もが自分の人生という主役であるのなら、覚えていたいこと、思い出したくもないこと、そんなことが人生を作ってきたのなら、自然と想像をしてしまうものなのだろう。
語られることのない役所広司の痛みは、やがて語ることのない観客たちの痛みとなるはずだ。その痛みは限りなく暖かい。人には血が通っているからだ。傷は癒えることなく痛み続けても、流れる血だけは今なお温かい。そこに人の心を感じるはずだ。
だからこの映画こそきっと、そんな風に人知れず人生に傷ついてきた人たちの影に寄り添う、「ヒラヤマ」という男を通したもう一つの影なんじゃないかと思う。
「影を二つ合わせたら濃くなるのだろうか?」という余命幾ばくもないだろう三浦友和から発せられた他愛のない疑問を真剣に汲み取って実践してみる役所広司が力説する。「濃くなってますよ!濃くならないわけないじゃないですか!」。あの穏やかだけど力強い優しい声音で、まるで切実に、それゆえに人の痛みを想う気持ちが真っ直ぐに響く。
彼が、名作「ユリイカ」で放った、燦然たる名科白が何故か思い出される。「生きろとは言わん、ばってん、死なんでくれ」。
人は傷つくし、人は傷つける。それが人生だ。しかし人は人の痛みに寄り添える。それが人間のはずなのだ。
役所広司が三浦友和にかけた言葉はまるで祈りである。人と人とがどんなにがんばって重なろうとしても所詮、人は独りなのかもしれない。見た目には変わらないし、何の意味もないのかもしれない。でも確かにその言葉を役所広司が発したとき、何故だか二人の影はひとつになって、まさしく濃く輝いていたような気がする。
影を踏みあって戯れる二人の名優、二人のおじさんの姿が、なんだかこれからを生きるということ、誰かを傷つけてきたし、誰かに傷ついてきたろう長い長い過去にも、誰かを傷つけるし、誰かに傷つけられるだろう長い長い未来にも、儚いけれど確かな光を当ててくれているようだ。
泣きもすれ、笑いもすれ、されど太陽はまた昇る。今日もいつものように仕事へ向かう役所広司の顔は、その日もまた確かに輝かしい朝陽に照らされていた。