奥山大史「ぼくのお日さま」
きっとまたここから歩き始められる。大人になっていく前の子どもたちの一冬の出会いと別れ、そして再会。
自分は何が得意なんだろう。自分は何が好きなんだろう。自分はどんな風になるんだろう。きっといろんな迷いやいろんな戸惑いが言えない言葉、見せない表情のなかにもたくさんたくさんあって、たぶんそれを言えないし、見せないのは、言ってしまえば、見せてしまえば、終わってしまうから。伸びやかに過ごしていた日々が、ただ憧れるだけでよかった時間が、うまくやれなくてもいい時代が、子どもでいられた季節が。
でも終わりとは悲劇だけど、それは始まりと裏腹で、どんな顔をしていいかわからないような別れの痛みのあとには、きっとまた陽光に包まれて出会うべき人に新しく再会する。
気まずいだろう、逃げることもできたろう、それでも少年は足に力を入れて前のめりにゆっくりとだが着実に歩きだして、少女の顔を正面から見据えて話しかける。
遠くから眺めるだけでも、後ろからついていくわけでもなく、面と向かって正面から話しかける。それは春の訪れ。でも春が来るのは冬があるからだ。
少年の冬は柔らかく暖かいお日さまに照らされたことで自分自身に春を呼び込んたのだろう。子どもだから、与えられた道で生きてきて、うまくいかなくて、でも腐ってしまうほどのめり込んでるわけでもないし、いろんなものに目移りして、だけど美しいものを美しいと感じるほどには純粋で、グラウンドに舞う雪を野球の練習のさなかに見上げる少年の心こそ美しいのだ。
だから出会えたこのときめきをどうか恋だなんて言葉におとしめないでほしい。柔らかな日差しに包まれてリンクに舞う少女にまわりなど目に入らぬほど見惚れる少年の心は純粋でまさしく美しい。
映画とは心象風景だ。美しいものをただひたすらに美しいと感じる心こそ美しい。彼のまなざしを体現するライツ、キャメラ、アクションは、少女に恋する下卑た視線などでは決してない。
恋とは下心だ。何がうまいでもなく、何をしたいでもない少年が心を動かされ、自分もやってみたいと、つたなくても真似を始めること、そのかすかだけれど確かな衝動は、他人を目的にしたものではない。きっとそれを恋だなんて言ってしまったらまるで全てが壊れてしまうように、その憧れは脆く儚いものだ。
だから同じ目的を持ってリンクを踊り始めた三人が過ごすかけがえのない時間はその美しさと楽しさとあまりの無垢さゆえにあらかじめ破綻することを予告されていたことに気づく。少年は少女を見ていて、少女は先生を見ていて、先生は少年を見ている。互いを見ていないから成立する純粋なるトリニティ。
見ていたとすれば、それは互いの表現するスケートの世界だ。彼らが同じスケートの夢を見ていたとき、その時間こそが柔らかく、優しく、暖かで、あまりにまぶしい太陽のような季節だ。
だからお互いの姿を、あるいは今まで見てこなかった人間としての生々しい部分を、見ようと思わなくても見てしまったとき、美しいものは汚らわしく、憧れは軽蔑へ、純粋なるものは不純な景色に様変わりする。
人の意識の変化と世界の見え方は映画の世界では同じものだ。雪の世界のまばゆい明るさは、冬の季節の薄暗い光景と同じで、見せてくれていた真心は捉え方次第で下心に映ってしまう。
でもそんな風に、世界の見え方が変わっていくということ自体がすなわち子どもたちの成長というものそのものなのだろう。淡く、ゆるやかで、優しい、しかし確実で残酷な変化の時だ。
冬来たりなば春遠からじ。好きが芽生えるときは嫌いが生まれるときだ。気持ち良いものを知れば、おのずと気持ち悪い感覚も覚えてしまう。
そんな気持ちが生まれてしまうのも、土地や家庭や環境によるものもあるだろう。誰もが自由に何にも囚われず生まれ育つことはない。
変化は必然で、成長には痛みがともなう。だからこそ、その変化を見守る人の存在がいてくれたならば、このたまらない痛みを優しく柔らかくお日さまのようにいつまでもどこかで見守ってくれていると思えたならば、それが彼の人生の一つの起点になる。
太陽は昇り、いつか沈むけれど、なくなってしまうわけではない。見えなくなっても、またどこかをきっと照らしているし、いつかまた出会うのかもしれない。いつも心に太陽を。
だから迷っても悩んでもまた歩き始められる。彼の人生は心の太陽に照らされてここから始まるのだ。これは、そんな淡くて柔らかい太陽の季節の物語だ。