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沢庵 不動智神妙録

内田樹の「日本辺境論」には日本人とは何者かという問いに対して答えた日本論です。かなりいろいろな引用が出ており、読みこなすのは大変ですが、この中で、沢庵禅師の住地煩悩という言葉が出てきます。これは、「不動智神妙録」に出てくる無明住地煩悩(むみょうじゅうちぼんのう)のことで、心が一つのことにとらわれて心が止まる迷いのことを意味しています。

「不動智神妙録」は禅の立場から仏教における心のとらえ方を明らかにし、剣士の心がまえを論じたものです。私は禅の実践をテーマに書道に取り組んでいますので、この観点から芸道に共通する概念の有用な知識を得たいと思います。

とらわれた心

何かにつけ心がとらわれてしまうと自由自在に心を動かすことができなくなってしまいます。例えば、一本の木に赤い葉を一枚見つけた時、残りの葉は目に入りません。一枚の葉に心をとらえられなければ、何千枚という葉をつけた木の全体が見えてきます。

無心無念

長い年月の間、稽古を行うとあれこれと思案することなく、自然に初心の時のように無心の状態でいられるようになり、無念無心の状態に達すれば手足がひとりでに動いて、心をわずらわせるということがなくなるということです。

かかしのようになる

仏国国師(高峰顕日)の歌に

心ありてもるとなけれど小山田に いたづらならぬかかしなりけり

山間の小さな田んぼに心というものがあって守っているわけではない案山子だが、決して無駄なことではないのだよ。という意味です。無念無心でこころはどこにもとらわれることなく、一方、体を動かしている如く仕事はきっちりこなしている。道極まるところに達した人はこの案山子のようになれるのです。

事理一致

どれほど道理や理屈がわかっていても身を自由に働かせる技術が必要です。反対に、技術がどんなに優れていても理屈がわっかっていなければ技術を応用することはできません。事(わざ)と理とは車の車輪のように、二つそろっていなくては役に立たちません。

石火の機(せっかのき)

石火の機とは石を打つとその瞬間光が出る。それほどわずかな時間のことです。心を止める時間のないことを表しており、単に素早いという意味ではありません。心を物に止めないということが大切です。つまり、心を止めないから素早いわけです。

心の置き場

心の置き場をあれこれと思案することは、その時点ですでに心を取られています。思案や分別を捨てて特定の場所に心を止め置こうとしないことです。そうすれば心は自然に身体全体にひろがって総てに行き渡ります。肝心なことは、心を一つに止め置かないことで、そのためには修業が必要です。どこかに置こうとしなければ、どこにもあるということになり、心を十分に働かせることができます。

思うまいとさえも思わない

心にあるものをなくしてしまおうと思う心が、また心の中にある物となります。そんなことは一切思わずにいれば、自然に心の中にある物がなくなって、無心となることができます。

思はしと思ふ物を思ふなり 思わじとだに思はしやきみ

総ての物に心を止めないこと

見るにつけ、聞くにつけ、そこに心を止めないことが最も優れている。(世の中の風潮に流されないことが大切だという意味でしょうか?)

心を捨て去ること

舞を舞うとき、手や足にいちいち心が止まるようでは何をやってもうまくいきません。こころを捨てきることをできずにする技は、皆、駄目なのです。   (ほとんど全ての芸道に当てはまりますね。)

心を追い放つ

心を引きしめておくのは未だ修業を始めたばかりの時のことで初心者の段階です。蓮は泥沼の中に根を張っていますが、その花は決して泥に染まらない。心をも、そのようにして行きたいところに行かせよということです。心を放つことが要なのです。

まとめ

書で言えば、書くときにはああでもないこうでもないといろいろな雑念が浮かんでくるものですが、まずこれを断ち切ることが大切です。そのためには稽古を積んで技を磨くことによって筆が自由闊達に進むレベルに精進することが必要となります。精神面では心が一つに止まることがなくなり、自由に放つことができるようになれば、無心無念の境地が達成され、その中で生み出された作品には自ずから気韻生動が備わっているに違いありません。  近頃の書道は練習による技の習得には余念がないようですが、精神面の修養についてはおろそかになっていないでしょうか。(そういうことを教えてくれる人がいないのも問題ですが。)芸道には心技一体となった成長が大切だと感じました。


参考文献

不動智神妙録  池田 諭 訳  徳間書店

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