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成田へ行く~中編(成田国際空港の周辺にある「闘争」の歴史!!)

前回から取り上げている、日本の世界への玄関口である成田国際空港
みなさんも利用したことはあるでしょうが、空港の外を散歩したことはありますか?

空港そばに温泉が。
空港の南部にある航空科学博物館より、周辺の景色を眺める。

一見、何もなさそうですね。地図を見てみましょうか。

果たして、空港周りは何を見ることができるのでしょうか。

前回は、成田市にある観光スポットをいくつか紹介した。
今回は成田国際空港周辺をクローズアップしていきたいのだが、温泉、航空科学博物館、成田空港・空と大地の歴史館、以外に何があるのだろう。

まあいろいろなお店などは見つかりそうであるが、せっかくなので成田国際空港成立の歴史が見れるスポットをいくつか紹介していこう。
ただ、あらかじめ言っておくが、相当な「血に塗られた歴史」であり、しかもこれは現在でも、あたかも呪われているかのように続いている歴史なのだ。
キーワードは三里塚さんりづか(成田)闘争」という。
ここでは、その歴史をちょっとだけ紐解きながら、成田だけではない現在も抱えているかもしれない日本の問題を見せていきたい。


前史・のどかな土地が広がっていた成田

成田空港があった地域は、かつて馬の放牧場であった。
関東平野に面している北総の地域は古代から馬の飼育がさかんであり、特に武士の時代には坂東武者たちから軍馬が重宝されていて、江戸時代は各地に「牧」という馬の放牧場が北総各地にあったようだ。

中野牧と下野牧は後に鎌ヶ谷かまがや新田へ。
成田空港は取香とっこう牧周辺です。
鎌ヶ谷市郷土資料館より。
千葉特に北総の資料館は馬を飼育した「牧」の資料が豊富です。
三里塚御料牧場記念館より。
成田空港・空と大地の歴史館より。資料はこれら3つの資料館から、特に成田空港・空と大地の歴史館のものを中心に載せます。
三里塚さんりづか古込ふるごめ駒井野こまいの木の根きのね天浪てんなみ取香とっこう、東三里塚が今の空港の中心地となる。
農地だったころの成田空港周辺。

のどかな原野が広がる北総地域。
明治時代に、鎖国を行っていた江戸幕府とはちがい、外国との商売と国内で近代産業を推進すべく明治新政府は殖産興業の一環で、大久保利通率いる内務省自ら牽引し、羊毛の生産をさかんに行おうとしていた

三里塚御料牧場記念館より、大久保利通卿と牧羊のようす。

しかし、①大久保利通が暗殺された紀尾井坂の変がおき、②羊の疥癬(ダニによる皮膚病)の蔓延、③指導者であったアメリカ人牧羊家アップジョンズの強盗による遭難と受傷で解職となり、下総牧羊場は衰退に向かう。のち宮内省にうつり、御料牧場として、この地・三里塚は牧場関係の八百屋や魚屋・仕立屋または日雇い労働者などが集まる町へと発展した。

三里塚の御料牧場は、三里塚の多くの人々の生活を支えたほか、日本有数の桜並木により行楽地として、多古線という鉄道も開業し、裕仁親王(のち昭和天皇)など皇族が訪問。

昭和天皇や皇太子殿下など皇族の訪問。

三里塚の御料牧場は千葉有数の観光地となり、高村光太郎は春駒という詩で「三里塚の春は大きいよ」と詠むなど、御料牧場は地元の人々にとっての誇りであったようだ。

御料牧場は、地元の人々の憩いの場であり、職場でもあり、誇りであったのだろう。

また、成田空港周辺は谷津田といわれる水田地帯であり、古くから農業で生活して土着している人々が多かった。江戸幕府直轄の天領の末端にあることから、代官の支配権が届きにくい場所であり、大正時代には農民組合がつくられ反政府の気運が強いところであった。
現在の空港南部の芝山から成田空港内にある取香や駒井野あたりがこれら古村といわれているところである。
そして御料牧場の一部は戦後、海外からの復員やアメリカに占領された沖縄から去った人々を入植地として招いた。彼らは「新窮民」と言われるほど生活は苦しく、昼は古村へ出向き土地を借りた小作として働き、夜は鍬で開拓を進め、米を炊くことももったいないため四日分の米を一気に炊いて空気に触れ腐りやすい部分から食べ、電気もガスも通らない、「オガミ」という三角形の藁小屋で生活していた。
このような戦後の過酷な状況の中、多くの人々が脱落することで、現地に残ったのはこれらの土地を買い取り生計を立てるようになった人たちだった。

働く人々と古村の景色。
収穫など生活のふとした喜び。

つまり、彼ら開拓農民たちは、自分たちで土地を耕し根付いていった。
彼らは長年に渡る開拓で土地を取得し、やっと農業が軌道に乗ってきており、さらには戦後の東京の食糧難を支えてきた自負があったのだ。

しかし、急に降って湧いて出てきた「新空港・三里塚案」に大きく傷つけられることとなった。

急転直下、空港建設へ!

高度経済成長期。
世界のジェット機による遠距離・高速・大量輸送や移動の需要が高まる中、日本唯一の国際拠点空港であった羽田の輸送能力は限界に達していた。
滑走路などの拡張を行うにしても、まず多摩川の河口にある羽田の川の向こうにある川崎は京浜工業地帯の一部で工場が集中している。
また、船舶輸送の殺到により海の港である東京港の整備のため埋立地が確保できず、しかも当時の埋め立て技術では水深20mの埋立が困難であったこと。
以上を鑑み、1962年池田内閣において、羽田に代わる新空港の設立が閣議決定された。
その候補地となったのが、浦安沖、木更津沖、印旛沼、白井、八街、冨里だった。
ただし、東京湾の土地の制約や羽田と航空自衛隊などとの航空管制の関係、スモッグなどの環境悪化で政府は迷走する中、冨里案が進むようになった。
しかし、当時は空港建設に対して地元住民の理解を得るのが難しく、地元住民のもとに革新政党らの結びつきもあり、「冨里・八街空港反対同盟」が結成されるなど、反対運動や脅迫声明・千葉県庁へのデモ隊の乱入事件などが起き始めた。
政府は「地元は政府が決めたことに従えばよい」のような強気な態度で、それら地元や反対派に対する根回しが遅れていた。
そのような中1966年、池田内閣から代わった佐藤内閣において、全日空羽田沖墜落事件など航空機事故が多発。
これを受けて佐藤内閣の下で友納・千葉県知事と「三里塚案」が秘密裏に進んでいく。
三里塚の貧しい開拓農民なら「土地の買い上げ価格を相当思い切ってやりさえすれば、空港建設は可能である」と、6月22日ついに佐藤内閣・友納知事による「三里塚・芝山地区」空港建設の官邸協議が報道された。
地元住民は「一反歩あるような(航空機)が降りてきたらどうするんだ」「戦争があったら爆弾が落とされる」「騒音で牛の乳が出なくなる」などと騒然とし、さらに日本共産党や日本社会党ら自民党政権打倒の野党らと共産主義革命を目指していた政治家や活動家らの指示を受けたオルグ団や冨里の反対派住民らが駆け付け、冨里と同じように戦おうと煽り始めた。
一方で、切迫する空港問題にいち早く開港を進めたい佐藤内閣は空港計画に干渉しないまま7月4日に「新東京国際空港の位置と規模について」を閣議決定。これが成田国際空港建設の基本計画となった。

閣議決定の記録。

闘争がはじまる!

政府は土地の買収を進めるため、畑一反の土地を相場の4~5倍のお金を支払うなど、破格の待遇にした。また、空港公団は地元住民を積極的に警備業や店舗経営など空港関連の仕事に雇うように手厚く働きかけた。
しかし、先祖代々の土地を守るもの、地元住民の事情を踏まえたうえでの決定でなかったことにより激怒した住民も多かった。
政府からの補償など交渉に応じる住民たちを「条件賛成派」というふうに分け、反対派の住民たちとの亀裂まで激しくなっていった。

結果、地元の約9割が空港建設に協力する形となったが、残る1割が断固として戦うこととなった。
彼らは共産党や日本社会党ら革新政党などの手ほどきにより、1坪運動(沖縄の反基地運動にも見られる、土地の買収を拒否するため多くの人々が1坪ずつ土地を買い占めて開発を拒むこと)や、用地の樹木を買い取り所有権を主張した名札を下げて開発を拒む「立木権主張」などを行い抵抗した。

一坪土地買収の登記申請書。
1300人もの人々が登記し、中には社会党などの国会議員もいた。
数千本もの樹木を買い占め名札を下げて「立木権」を主張した。

このように、合法的かつ民主主義的な抵抗を続けていたのだが、やがて武力衝突が顕著になる出来事が起こる。

10月10日、測量を行うためのくいを打つために空港公団職員らは1500人もの警察の機動隊に守られ現地に到着。
迎え撃つ反対派たちは、座り込みと投石による抵抗を試みたが、機動隊により強制的に排除される。
しかも、同盟を組み先頭に立っていたはずの共産党や民青(共産主義の「民主青年同盟」)らは列から外れ、労働歌「がんばろう」を合唱しながら機動隊と反対派の衝突を傍観していた。
絶望した反対派たちは、共産党を排除する声明を出し、反対派の中にいる共産党支持者や家族をも排除し「武力蜂起も厭わない」ことを宣言し始める。
共産党は過激路線に走る反対派と距離を置くことを宣言。
その代わりに、反対派はもっと過激な「新左翼」と言われる学生中心の反国家活動家たちを仲間にしようとした

新左翼は、ソ連や中華人民共和国・北朝鮮のような人民を中心とした社会主義・共産主義を理想として掲げ、日本やアメリカの帝国主義を壊滅するために、特に学生や知識人たちが、それを理想的な思想と憧れ、各地で反権力・反国家の活動を行うことを流行とし、いわゆる「学生運動」を起こしていった。

新左翼との共闘により、反対同盟の人々たちにも中華人民共和国の毛沢東バッジや毛沢東語録が配られた。
今も日本にはソ連や中国を理想とする共産主義者や北朝鮮の金一族を礼賛する主体思想者、そして反国家主義者やそれを気取る者ども、彼らの言動に結果的に従っているデュープスが蔓延っている。
が、今よりもネットなどで情報リテラシーが進んでいない当時の知識人はこれら共産・社会主義を信望する人々が実に多かったのだ。
成田・三里塚闘争は、地元にこだわる住民らと、それを甘く見ていた自民党政治家や官僚たちと、これを思想闘争として利用した左翼たちによって大きく拗れていくのだ。

のちに彼らは「あさま山荘事件」や「よど号ハイジャック事件」「テルアビブ銃乱射事件」など日本赤軍や連合赤軍などテロリストと化していく。

新左翼の学生たちは、この三里塚闘争こそ反米路線である「ベトナム戦争反戦活動」と「反佐藤内閣(ちなみに佐藤は安保闘争で彼らの敵であった岸信介首相の弟)」のシンボルとして位置付けた。
しかし、現地の反対派にとり、彼らの1868年の2回にわたる「成田デモ」での活躍は頼もしいものであった。
やがて彼らと反対派たちは、ゲバ棒(角材)、竹やり、鎌や投石、屎尿や毒ガスも発生することがある農薬のクロルピクリン、そしてブルトーザーをも炎上させる火炎瓶などを武器として、軍事訓練をも行うようになった。

1969年8月18日、御料牧場が閉場となる式典に乗じ、反対派が会場を破壊。
11月12日の工事現場でのブルトーザー阻止のための座り込みでも、空港公団側は円満な話し合いが不可能と考え土地の強制収用に乗り出していく。
反対派も、いわゆる「砦」といわれる強固な団結小屋を建設、地下要塞をも作ろうとした。

1971年2月22日から3月14日、友納・千葉県知事は期限内の土地の明け渡しが行われなかったとして、土地の強制収容である第一次行政執行を実施。
一坪運動の土地や砦・要塞など土地を習得するのが目的だ。
反対派はバリケードや樹木に体を縛り付け、穴ぐらに決死隊が立てこもり、中核派など共産主義的活動家も2350人がデモ行進・アジ演説・突撃訓練など威嚇をはじめる。
膠着状態の中、反対派の機動隊への投石、少年行動隊の突撃による小学生が警棒で殴られ負傷、火炎瓶の投擲による重機の炎上で空港公団側の作業員が火ダルマになるなど激しい攻防が繰り広げられ、機動隊をふくむ空港公団側の竹やりや投石などでの負傷者は約3万人中1071人、中には火炎瓶をまともに受けて退職に迫られる人もいた。反対派側は2万人のうち逮捕者461人・負傷者は604人。団結小屋の破壊によって第一次行政執行は終了宣言。
そして、死者が出た第二行政執行(9月16日から20日)が起きるに至る。
駒井野、天浪、木の根、取香、各地に団結小屋がつくられ反対派は立てこもる。特に新左翼過激派にとり、この第二次行政執行は来る秋の「沖縄返還協定に対抗する阻止闘争の前哨戦」として位置づけ、気合が入ったものだった。

東峰十字路事件。
強固な駒井野団結小屋の東側の検問のため機動隊の堀田大隊261人が東峰十字路に午前6時に到着。現地に展開した堀田大隊に対し、武装したゲリラ部隊200人が本体と堀田大隊を分断する形で、孟宗竹が繁るこの十字路と鉢合わせとなった。
孤立した堀田大隊を急襲する形で一斉攻撃をはじめた。
堀田大隊は総崩れとなり、80人以上が負傷、中には全員火傷、右目の失明、顎の骨が砕かれ全ての歯を失ったもの、堀田警視も腕を骨折。
本体の補佐を行っていた小隊やゲリラ対処をしていた警察官も路上で殺害された。火炎瓶を投げつけられ火ダルマとなった警部補に「生かして返すな」「ヤッちまえ」とゲリラ部隊は襲いかかりゲバ棒や鉄パイプで滅多打ちにされ、病院に搬送中に死亡した。
特にゲリラ部隊は後に証言されないよう機動隊の顔を集中的に攻撃し、倒れた時に濃硫酸をかけられた隊員もいた。
「白旗を掲げ手を挙げて降伏をする機動隊員、命乞いをするものに対しこれまでの憎しみを果たすかのように」(『叛旗派・武装闘争小史』より)攻撃し、犠牲した3人の隊員は司法解剖でも著しい損壊が見られた。

3人の警官が殉職した碑。
空港側などによる厳重な監視により2人の碑にしか合掌できませんでしたが、関係者かが今でも花を手向けております。

ただ、これにより流れが大きく変わった。
これまで、マスコミの大体は彼ら反対派に同情的であったが、この3人の警官の犠牲を受けて「三警官殺し」の犯人探しをするような批判的論調に変わった。
新左翼活動家らも今回の事件は「機動隊に大打撃を与え大勝利」「警察官の死亡は当然の階級的報復」(中核派の松尾委員長の記者会見)、学生らも「当然の復讐で責任は佐藤首相と機動隊にある」「アメリカはベトナム人民を殺し続けており佐藤はこれに加担しているから我々人民にも佐藤を殺す権利がある」など宣っていたが、反対派の青年の中にこの事件後に精神的苦痛を示す遺書を残し自殺するものもいた。
新左翼学生らはより過激化し、反対同盟の実力闘争も指揮をとるようになり、さらに同年の朝霞自衛官殺害事件や沖縄ゼネスト警察官殺害事件や渋谷暴動のように警察官や自衛官らの殺傷事件に勢いづいた。
だが翌年のあさま山荘事件・山岳ベース事件の発覚で、世論は彼ら過激左翼活動家に対し嫌悪感が広がっていくようになった。

東峰神社。
今でも反対活動家らが土地を独占したり、活動を行っていることから厳重監視されており、バリケードに囲まれた異様な神社となっている。
以前は、この神社への一般人の参拝すらも反対活動の監視対象として空港側に警戒・制限されていたが、発着する飛行機が間近に見れることで、今は参拝と撮影を自由に行ってもよいようだ。

その後と周辺のご案内

1971年の行政代執行の後、A滑走路の南側に反対派は60.6mもの岩山大鉄塔を建設し、飛行検査を中止に追い込む。
開港が遅れる中、1977年福田内閣は年内の開港を打ち出し、抵抗の中で機動隊は岩山鉄塔の根元の切り崩しに成功。
反対派農家も320戸から行政代執行前後で45戸、1976年には23戸へ減少。また、活動家や警察官が死亡する東山事件や柴山町長宅前臨時派出所事件がおきる。1978年には成田管制塔占拠事件、京成スカイライナー放火事件が相次ぐ中、1979年についに新東京国際空港(現在の成田国際空港)が開港。日本が誇る国際空港、国際拠点としてアジアでも中心的な役割を果たすようになった。
しかし、前述の反対派農家の離散、新左翼ら極左集団の陰りもあり細々となったものの、現在でも反対派活動は続いており、2023年には「三里塚・芝山連合空港反対同盟北原派」が設置したやぐらの撤去を求め、反対派約50人と機動隊数百人の衝突事件がおき、反対派3人が公務執行妨害で逮捕されている。
そういうこともあり、成田国際空港周辺の警備は今でも重々しい。

筆者である僕も、周辺の散策において横堀鉄塔には立ち入り規制で到達できず。ほかのYouTuberやブロガーさんは到達できたみたいだが、GoogleMapを使い進行を試みるも「ここから先は立ち入り禁止です」と言われたり。
先ほどの警官3人の殉難の碑のうち一人の碑には、「これまでのあなたの行動(2人の碑の撮影)は黙認してきましたが、これ以上は認められません」と断られた。

ということで、僕が撮影してきたスポットです。

まず、JR成田駅から御料牧場へ。そこから徒歩で航空科学博物館へ向かってみた景色です。
御料牧場前に到着。

資料は前述で貼りました。
御料牧場記念館周辺は、栃の木が茂っており。栃木じゃなく千葉なのに。
記念館だけじゃなく、以下の建物も。
前述、御料牧場の前身である下総牧羊場の責任者・アップジョンズ氏の邸宅。
氏が退去後は事務所となり、御料牧場になって後は迎賓館となる。
その裏にある、御文庫、つまり皇室用の防空壕ですな。
そうそう、みなさんにとり、よくテレビとかでも報道される御料牧場というと栃木県塩谷郡高根沢の御料牧場ですね。よく、陛下や殿下らが療養したり接待したり、皇室の園遊会や晩餐会で食材を提供する。
その栃木御料牧場の前身が下総御料牧場なのですよ。
この防空壕も、陛下が疎開を拒否したことで(国民を捨てて逃げると申すか!と激怒なされた)使われることはなかった。
三里塚は空港方面へ、空港西部を南下する形で、航空科学博物館を目指します。
途中、「さくらの丘」「ひこうきの丘」でトイレを借りつつ。

御料牧場記念館から空港西側の景色、いかがでしたでしょうか。
実は航空科学博物館は、トップにる前回記事に載せましたので、ここでは詳しく記しません。
ここでのスポットは、反対派が建てた団結小屋。
その中でもシンボル的なものである、岩山鉄塔です。

この辺りは、滑走路の拡張のため人がほとんど住んでいません。
しかし、反対派が活動しているのか、わずかに人が活動している気配を感じます。
大きな通りに抜けると、緊張感ある(わずかに人が整備した原野と異様な人の気配)場所を抜け出し、いよいよ癒しのスポットです。

はい、道の駅、というか「空の駅・しばやま」でした。
美味しい地元の野菜や料理、総菜。2~3km歩いて疲れた体に癒されます。このあと空港までさらに2~3km歩くので、さらに南にある「芝山古墳・はにわ博物館」には行きません。
で、本当はここで帰りましたが、なんせ成田空港方面には5回ぐらい取材に行ってるので、後日に憧れのここも、ついに発見しました。それが、

大通り。ここから裏道に入ります。

朝倉団結小屋です。
反対派の活動拠点である団結小屋の1つ。
岩山鉄塔など団結小屋が成田国際空港の各地にありますが、なかなか入りづらいもので。この朝倉団結小屋もGoogleMapでは「芝山朝倉の名前の判らない神社」という名前で分かりづらかったのですが、ついに見つけました。

成田空港周辺は、三里塚闘争を知っていると俄然見たいスポットが増えていきます。
今度は北側に移りましょう。

東峰神社。もとは1937年に民間航空のパイオニアといわれた伊藤音二郎が津田沼(千葉県習志野市)につくった航空神社だったが、戦後に伊藤が成田東峰に入植して神社を移す。
この神社は反対派にとっての活動拠点でもあり、最近まで私服警官が巡回し多く職務質問される場所であったが、現在は土地登記の和解もあったためか厳重な警備がなされるくらいである。

これが神社前の参道である!
頭上すぐを飛行機が飛んでいるので、観光客も増えています。
東峰十字路事件の殉難碑も近く。犠牲者に心より哀悼を。
歩くとやたら長い地下通路もいかがでしょう。

最後に、日本一短いと言われていた(現在は東日本で最短)たった2kmの芝山鉄道(東成田~芝山千代田)と。

僕の癖としてアニメネタをぶち込みます。
京成線で成田空港まで向かいましたが、京成線は2024年今年にアニメ「逃げ上手の若君」とコラボしています。
たまたまアニメで弓矢の速度を京成線にたとえていた、それだけなんですが、京成線も彩りが増えて旅が楽しくなりますね。

時計回りに、右上は成田空港第二ビルの壁。
右下は車内、もうコラボ期間は終わってますね。
左下は京成津田沼で買ったアクスタ。
左上は京成上野駅の階段。

ちなみに、三里塚闘争を描いた漫画作品はこちら。

さて、血生臭い歴史に突然のアニメコラボ、しかも8900字にわたる長文。
お疲れさまでした。
まだまだ中編ですが、一番山場の「三里塚闘争」を描けて良かったと思います。(前回から1か月後になりましたが)
次回の成田特集の後編は、久しぶりの「くるくる、くるり」企画、チーバくんの目玉をチクチクする旅となります。
成田の郷土資料館をもとに郷土のくらしや歴史にスポットをあてて、印旛沼を中心とする千葉は北総の歴史が描ければいいな。
以前見学した、鎌ヶ谷や白井などの郷土資料館のレポートも役に立ちそう。

あと、久しぶりに国府国分寺企画、モノレール企画、湘南の海と山梨の山と東京・埼玉の平野部のくらしの比較、などなどいろんなネタを描いていこうと思ってます。
取材は趣味なのでいろいろと済んでますが、あとは文章を作るだけ。
それに手間取り、時間かかりそうですが、個人的にプライベートに辛いこともあったのでそれを乗り越えて立派に生きていくためにも、ちょっとがんばりたいと思います。




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