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くるくる、くるり。チーバ君の鼻to耳へ~その③

またまたお会いしましたね。
どうも、その辺を飛んでいるちっちゃな虫です。「チーバくん 鼻」でgoogle検索すると、かなり下の方ですが僕の「くるくる、くるり」の記事が出てくるのにビックリしていますが、過疎記事には変わらないこの頃です。みなさん、以前の②の野田と流山が、僕のnote史上「500以上のビュー」という割と多めに見てもらい、ありがたい限りです。読者の方々いましたら、ここに深々と頭を垂れて禿げ頭をさらしておきます、お目汚しすいません。

今回もチーバ君の鼻に突っ込み、その中にある千葉の歴史を探っていきましょう。
じゃあ行きますよ、レッツ! ブェックショイ!!!(くしゃみに飛ばされないでね!)

前回は、チーバ君の鼻先である野田と流山を探り、チーバ君の鼻から「醤油と味醂」を放出させるのに成功したね。
「チーバ君の洟垂れ」で、醤油と味醂がハナタレました!!

野田で醤油がドッパドパ!
流山でみりんがドクンドクン♪
今回は、松戸と市川で梨汁ブシャァアアアアア!!

松戸の梨が爆発的に!

松戸へGO!

流山市のすぐ南の松戸市へ向かいます。
前回の流山の中心地(市役所がある)「流山駅」は流山線。ローカル線ですが幸谷駅まで行き、徒歩すぐ武蔵野線新松戸駅。またはもうちょっと流山駅から頑張って歩き、武蔵野線南流山駅で目指すのも良いでしょう。
新八柱駅の近く(松戸市役所のある常磐線の松戸駅からは新京成線にて八柱駅の近く)、松戸市立博物館からその様子をお届けします。
松戸文化会館や西部図書館がある「21世紀の森と広場」がある場所です。
(松戸覚之助が「二十世紀梨」を発見した松戸市の「二十世紀ヶ丘」に対抗して作られた場所でしょうか?)

松戸から見る千葉の地形

さて、松戸からまず千葉の地形を見ていきながら、梨の成立にたどり着こう。まず、千葉県北部に広がる下総台地。数万年前、富士山や浅間山などの火山がドッカンドッカン噴火したとき、火山灰が降り積もってできた関東ローム層による低く平らな丘陵地。
その谷間は「谷津」と言われ、水田がつくられてきました。
谷津というと、ラムサール条約に登録されている「谷津干潟」や、かつて千葉の盛り場だったがディズニーランドにその地位を譲り渡した「谷津遊園(今は谷津バラ園)」という場所が有名ですが、もともと谷津とは台地の谷間だったのですね。

川のまわりの水田地域が谷津です。

千葉は意外と米の生産が多く、全国8位。品種としては「粒すけ」「ふさこがね」「ふさおとめ」など。  (以下、千葉県のHPより千葉の米情報。「ふさこがねちゃん」と、「ふさおとめさん」が見られます)

谷津より30mほどの高台の部分が「台」で、ここは一転、陸稲(おかぼ)や麦、野菜の生産がさかんになります。

周辺はこんな分布ですね。

水運と陸上交通の拠点、松戸

地形の様子はこんな感じでした。
で、僕は前回から一貫して、川をテーマに注目しています。川はかつて荷物を運びその集散地として都市を発展させてきた。
この記事「くるくる、くるり」も鉄道で千葉を駆け巡ると言っておきながら、実は川を駆け巡ることもあり、次回の「佐原と銚子」もチーバ君の頭上を駆け巡る(北の茨城との境目となる)利根川がテーマ。
今回も、利根川から分岐された江戸川にて、野田の醤油と流山の味醂が流れながらチーバ君の鼻先からハナタレて、チーバ君のベロ(舌先)の浦安に向かいます。醤油と味醂とともに、松戸や市川の梨などをチーバ君のベロに届ける使命感をなぜか持ってますので!
(チーバ君の「鼻to耳」でなくチーバ君の「鼻to口(ベロ)」になってますが!鼻→口→耳のトライアングルになりそうですが、こっちのほうが「くるくる、くるり」ですよね!)

さあ、まずは埼玉・東京と千葉との境目にある江戸川の舟運にスポットを当てましょう。江戸川周辺は「下谷」といい、台地からの川も流れ込む地域。水田が広がるのと同時に交通の要所でもある河川中心に発達した場所です。
まずは下谷のくらしをダイジェストで。

舟運の様子です。

松戸の語源は、馬が渡る河川の津(港)の「馬津」とか、後述する小金牧の馬の牧場から「馬里」とか。
また、ヤマトタケルの東征のとき従者を待ったことや、川を渡る船を待つことの「待つ里」から来たとか、諸説ある。
「戸」と名付けられたのは、交通の要所(町の入り口)ということなのだろう。そんな松戸の「川の港町ぶり」をご覧ください。

ここで江戸時代までの松戸の水運を示しましたが、松戸は陸路もふくめた交通の要所でもあるのです
松戸から江戸川を超えると金町。ここには関所が置かれ、幕府は橋をかけず船で江戸にいたる人々を取り締まった。
現在も松戸を超えると金町、その周りは柴又帝釈天や亀有などの葛飾区、そのすぐ隣は千住。日本橋から東北への奥州街道の基点が千住で、そこから水戸街道が、松戸・我孫子・取手に牛久に土浦を通り水戸へいたる街道も交わるまさに交通の拠点の1つなのです。
松戸は港町だけでなく水戸街道の宿場町としても発達しています。
以下、その資料です。大名たちも御成(おなり)~♪

このように、松戸周辺千葉一帯は農作物の産地だけでなく、交通路が発達した場所あるのがわかりますね。

さらに下総台地は馬の牧場にも利用される

歌川広重の描いた浮世絵の小金牧。

千葉は江戸幕府の将軍たちが軍馬育成のための牧場(牧)を各地で設置した。それもあってか、千葉は牧場が多く酪農がさかんであり、乳牛の飼育頭数は全国でも上位(酪農のはじまりは徳川吉宗が千葉にて行わせた)、冷蔵技術発達前の昔は東京の生乳は北海道は都心部から遠いため千葉から出荷されたものが中心だった。また松戸から東にあたる「習志野」は軍事演習が明治時代に行われ、そこから明治天皇が習志野の土地を与えた。明治以降の日本軍も、千葉が支えたといっても過言ではないだろう。

日本の馬は、今のサラブレッドと違い、短足で足が太い。
軍馬もそうだが、荷物の運搬や農耕馬として利用されていた。

ちなみに、こういう台地状の場所が馬の育つ場所や、馬術訓練を行う馬場なのかな。うちの近所の加治丘陵も加治氏という地元武士の馬場という話を聞いたが。

加治丘陵。まったく松戸と関係ありませんが、原理は各地域同じなのでしょうか。
こういうのを見出すのが、郷土史や民俗学、歴史学を学ぶ醍醐味です。

松戸、さらに昔へ

現在の松戸が繁栄するもととなった江戸時代の陸路と水路について見ていきましたが、もっと古くからの松戸も見てみましょう。
実は、今につながる社会制度・特に「交通制度」の基幹になった江戸時代以前からも、松戸は交通と作物生産が発達していた場所だったのです。
縄文時代、温暖化により自然豊かであった松戸周辺にも広がる千葉の里山。

中心部の山や台地がすぐ海に面している千葉は、海の幸だけでなく、里山にいるイノシシやシカ、山菜、キノコや果物、主食となった木の実。
また動物の毛皮だけでなく、カラムシ(苧麻)などの繊維が強い草は、衣服に縄や編布(あんぎん)などの原料になっていた。
台地が海に沈んでできた千葉は、縄文時代から豊かな自然に囲まれ生活しやすい場所だったのだ。

それもあってか、交易もさかんとなる。千葉の豊かな自然財をもって交換し、高山に乏しい千葉は当時の生活に欠かせない石器などを火山帯や山地・島々から入手する。

東日本に発達した縄文時代の遺跡は、千葉にも繁栄したように思える。

天皇が日本を統一し、日本に国家ができたころ。下総国も日本に多くの物産を供給した国だったのだろう。

天皇ら朝廷の力が衰えても、関東は坂東武者たちが勢力をのばし、千葉にも初期は千葉常胤ら、戦国時代になると高城氏が勢力を伸ばしていく。

千葉は暖流である黒潮も通り一年中温暖で一定のおだやかな気候。そこからの海の幸と山の幸にめぐまれ、農業生産額日本第4位(北海道と鹿児島・茨城に次ぐ)で多くの種類の農作物を都心部と全国に供給している。
そして政治の中心地があった鎌倉時代、室町~戦国時代(鎌倉府と関東の覇者・小田原北条氏)、江戸時代、東京のできた明治時代以降も、都へ通じる交通路として、多くの労働者や人材を日本のメイン舞台に出してきた。
けっして千葉はディズニーランドだけではないのだ!
今回の「くるくる、くるり」では特に、チーバ君の鼻と耳と口を結ぶ、利根川と江戸川がいかに関東繁栄の、そして日本繁栄の元となったのかを「大言壮語」ながらも描写していきたいところだ。(大言壮語というのは、まだ研究が浅いため具体的描写に乏しいところ)

さて、千葉の豊かな情報を記載しながら、メインの梨づくりに。

二十世紀梨を開発し、日本梨の生産量は茨城と競う全国1位である千葉。茨城とともに下総台地周辺は梨の一大生産地帯である。
二十世紀梨は、松戸の「松戸覚之助」がゴミ捨て場から入手した新種。この苗木は全国に広まり、長十郎とともに二十世紀梨は日本の二大品種となる。

二十世紀梨は、今の千葉県松戸市二十世紀ヶ丘の場所で明治時代に松戸覚之助が発見したが、やがて市川市に多く生産されている。
以下は、市川歴史博物館による記事。
松戸覚之助以前、中世から近世にかけても、下総台地の周辺では梨づくりがさかんだったようだ。

手前は梨の消毒箱。

最後にまた松戸市立博物館にて。ちなみに、これも松戸で有名らしいです。 何でしょうか?

答えは、虚無僧! 松戸小金にある一月寺は江戸幕府の保護もあったようです。

ということで、最近「漫画とアニメ」要素が少ない記事である「くるくる、くるり」。
無理やりですが、「のんのんびより」の「虚無僧マン」を出してみました。

梨と塩と海苔が栄えた、市川と浦安へ

新八柱駅に戻り、武蔵野線は東松戸駅から北総線に乗り換え、北国分駅からすぐに市川歴史博物館と市川考古博物館があります。
まずは市川歴史博物館ですが、市川市は先述の下総国の国府と国分寺が置かれた場所です。特に市川市の国府台ですね。
ですが、歴史博物館は国府と国分寺の内容は薄く、すぐ近くの考古博物館がくわしいので、中世以降の市川のようすを載せておきます。

中世の支配者はやはり千葉氏ですね。やがて戦国時代に小田原から関東の覇者となった北条氏と、千葉の大名らが戦い敗れ、したがったきっかけが国府台合戦です。

北条氏の天下も泡沫(うたかた)、全国覇者となった豊臣秀吉にその後を継いだ徳川一門の支配に代わると、松戸で示した通り、街道と食材供給の地域として発展した。

軍都である千葉

明治になると、千葉は農業と漁業地帯にあわせ、軍隊によって発達した町となります。
千葉には、陸上自衛隊の習志野演習場に柏訓練場に下志津駐屯地、海上自衛隊下総航空基地、航空自衛隊分屯基地も各地に見られますね。

以前こないだ訪れた千葉の鎌ヶ谷市郷土資料館にあった鎌ヶ谷市航空写真に見える下総航空基地。
下総台地が軍馬の牧から軍都として発達した名残でしょう。
鎌ヶ谷市のキャラの「のまっきー・とっこめくん」も軍で発達した名残でしょうか。
市川歴史博物館における軍隊資料に戻ります。

海辺の産業

松戸から、ついに東京湾に面していきます。市川。
台地上の農作物から一転、海による産業が発達します。魚介類や海苔などの海藻だけでなく、ある重要なものがつくられます。

市川市と江戸川の景色。

行徳塩田。ここは以前から製塩がさかんだったが、江戸時代に徳川家康によって領土として組み込まれ、江戸だけでなく全国に「塩」という人間が生きるために絶対必要なものが出荷された。
日本人が原始のころから苦労して開発してきた「塩の大量生産」。
行徳塩田は、入浜式塩田による大規模な製塩場として野田の醤油だけではなく様々な産業に用いられた。

塩づくりなら以下の「たばこと塩の博物館」取材記事へ。
以下、行徳塩田での製塩の道具やミニチュア人形です。ごく一部ですので、ぜひ市川歴史博物館にてご覧ください。

日本最大の製塩地域はもちろん瀬戸内地方ですが、ここでできた「下り塩」とも行徳塩田は取引があったようです。

また、海苔の養殖もさかん。これは、浦安も、東京の品川から大森にかけても同じかな。これら葛西の海苔や品川海苔を浅草で加工・販売していたため、まとめて浅草海苔といいます。
行徳の海苔づくり。東京湾は九州の有明海と同じく、干満差が大きい。満潮時に海苔を付着させ、引潮時に海苔を採りに行くのだろう。
今は網を張り巡らせて海苔を付着させますが、当時は、「ひび」というのを立ててそこに海苔を付着させた。

昭和ごろから始まったらしい、網ひび。

海苔をとり、細かいゴミをとります。砂とか貝殻とか、大変そう。
そして、海苔の葉の大きさがマチマチなので、細かく刻む「海苔切り」をし、平らに均一に伸ばして板海苔にします。

海苔は美味しくてよく売れるし、高価だったため(今でも数百円はするな)、お金が稼げたのだろう。地方からも、農閑期などに仕事を求め、出稼ぎに来ていた。

これらの海苔や野田や銚子の醤油が東京で販売されている様子を、「江戸東京たてもの園」にて取材してきました。港区白金にあった小寺醤油店です。

前回の野田にて描いた日本全国の醤油の分布。関東は濃口、関西が淡口ですね。
銚子のヒゲタ醤油と野田のキッコーマンが売られています。

同じく白金は目黒通りにあった乾物屋の大和屋。

おまけ。江戸東京たてもの園は、名作漫画「ゴールデンカムイ」の聖地でもあったために。市川と関係ないけど、いつ描けるかわからんのでついでに。

ふたたび市川歴史博物館へ。街道と水運の町、市川の行徳。多くの著名人たちも旅を楽しんだようです。

彼ら、佐原でも出会ったな…。また会いましょうね。

千葉北部の下総国の首都であった市川

お隣の市川考古博物館へ。千葉北部の下総国府の資料がありました。

#市川考古資料館 、撮影とSNSアップの許可をとりましょう。念のためハッシュタグつけときます。

原始時代は縄文のころから、干し魚や燻製などをつくっていたのでしょうか。

フグを食べたか何かで全滅した家らしいです。

さて、国府。

やっぱ豪華なことが国司の仕事の厳しさと威厳を保つモチベーションかね。
よく国司と比べて「庶民の生活は貧しくてヒドイ!」という人がいるだろうが、民衆もこれらの食事が保障されているならば、縄文の頃より幸せだったかも。

個人的に、めちゃくちゃ土器に描かれた落書きが、漫画っぽくて僕の中で胸熱です!!

考古博物館と歴史博物館の周辺。谷津の小高い台のところか、坂の上から見る景色がきれい。市川の国府台や真間(崖のあたり)の上から、海を望みながら役人たちも支配地を眺め見たことだろう。

さて後日、というか市川歴史博物館は2月末日に行き、これは本日6月末日に行ったものだが、市川駅からここを目指して江戸川を上っている。
ここに、国府神社、国府のあった総社、そして下総国分寺を散策する。

そして、「道の駅いちかわ」で市川名物の梨を求めるが、そういえばシーズンオフ。旬は秋だったな。じゃがいもなどの野菜と梨ジュースを買った。

100%梨ジュース!
ここで市川親善大使のパネルに勧められたよう、「#市川ファン」をつけておきましょう。

徒歩30分ぐらいで市川真間駅にて。
真間とは、台地や丘の合間の崖のことらしいが、どうしても「真間=ママ」と読むことから「市川さんちのお母さん」ってイメージが。

て、「僕の心のヤバイやつ」って漫画の主人公、市川京太郎くんの母さん(ママ)がかわいいので、思い出していたら、母の日を称えるため「ママ」と1日名乗ったよう。

個人的に、市川真間駅内にある「鏡石」が、夫婦石の石棒と女性を象徴した凹みが並べられていたようで、「ママ」がより子孫繁栄の言葉のようにも思える。

ディズニー以外の浦安の話

もはや情報量が多すぎてお腹いっぱいだと思いますが、最後にサラっと浦安を描写しておきます。
武蔵野線、総武線の西船橋駅から、東西線の行徳の手前にある浦安駅、京葉線の新浦安駅。
今回は浦安駅から浦安市郷土博物館を目指しましょう。
境川に差し掛かると、町角ミュージアムのように過去の浦安と境川の町の写真が何点も見ることができます。
昔の境川周辺。家から船に飛び乗り、そのまま出漁しに行きます猛者たち。

今の境川周辺。

漁師町だった長崎出身だからわかる。いたるところに魚を干しているヤツだ。

浦安郷土資料館へ。ここは郷土の産業(おもに海苔)や、船大工、そして昔の町並みを復元して展示している。

まず、昔の町並みから。いろいろ撮影したが、別の機会に貼りますし、現地に行ってお楽しみください。

山本周五郎の「青べか物語」にも記載されている浦安の店。
読んだことはないが、「べか船」という船のことで、漁師たちが酒をかっ食らい明日の出漁にのぞむたくましい息遣いが聞こえてきそうだ。

原稿料がもらえれば、山本先生も豪儀なのだろう。「酒、御銚子いっぽん持ってくんな。天ぷらは適当に二、三本!」
ちびちび飲みながら、今日の良いタネをもとに酒を啜(すす)り飯を食う。
漁師は酒でなく焼酎だ。1合を2合に割ってもらい、車海老、あなご、はぜ、キス、頭や背中や尻尾を別に揚げさせる。それを肴に焼酎を飲み、身のところは別に揚げてもらい、包んでもらって家に持って帰る。
お家で嫁と子供たちに食べさせるのかな。

鮭に車海老。アジの干物かな。
イワシにアジに、おいしそうだ。

屋内に入ると、船大工の展示。これがなかなか圧巻。

浦安も、下谷や谷津の地域に米がつくられていた。海苔づくりとの協同とあれど、「ごはんを海苔で巻いておいしい!」というより、田んぼを「海苔を干す場所」として、多くの海苔干し場が設置されたことにある。

娘さんの下半身が丸々水田に沈んでいるのを見ると、かなりの水多き湿田だったんだろうなあ。

浦安の町の今昔。

浦安鉄鋼団地。名作ギャグ漫画「浦安鉄筋家族」と関係はあるのでしょうか。

今の浦安を、葛西臨海公園から眺め見ましょう。
まず江戸川河口です。

西へ、スカイツリーのある東京都心部。

東へ、千葉の東京ディズニーリゾートのあたり。

利根川から分流し、関宿から野田、流山、松戸、市川を経て、チーバ君のベロ先まで到達してみました。
次回は、「くるくる、くるり。チーバ君の鼻to耳」最終回です。
やっと銚子に行きますね。とんだ寄り道だったでしょうか。
けど僕の中では、チーバ君の口を回ることで、うまく鼻先の関宿、口の浦安、耳の銚子の「三角形」を結べ、直線ではなく膨らみをもち、なんとか「くるくる、くるり」になったと思います。

江戸川が流れ出る海へ。ここからさらに銚子へ飛んで、分流した利根川を見届けていきたい。

千葉がちょっとでも伝わったかな。
ただただ行きたい場所へ行き、そこを描写するだけの自己満足の旅。誰も評価されないけどいろんな苦痛を伴いながら(トイレとか)そこに行き、誰も評価されないけどそこを描く。他人から見れば、まるで狂っているようですよね。
けど、よかったら、自分の知りたいところに、何でもいいから行ってみてはいかがでしょうか。狂狂くるり、狂ったように好きなところに行けばいいと思います。
ぜひ、みなさんも、「くるくる、くるり」!!


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