成田へ行く~前編(成田周辺を楽しもう!)
遠いお空から、こんにちは!
チーバくんの目玉へようこそ、ここは成田国際空港だよ。
ここ北総は房総半島の北部と利根川の南側でチーバくんの頭部。
北総の地は富士山や浅間山など中部地方の火山からの灰が積もった関東ローム層による、低くなだらかな下総台地からできている。
そして、北は霞ケ浦と利根川(江戸時代の東遷事業前は東京湾に流れていたが)、かつては印旛沼と手賀沼まで広がる水辺の地域で「香取の海」と言われていた。
今も、見渡す限りの長閑な農地や、谷津と言われる下総台地ならではの坂や森林地帯の合間に見える、豊かな川に沼などの水辺。
こんな成田へのアクセスは、①東京からJR(総武線)だと秋葉原を経て船橋を通過し、千葉駅からチーバくんの喉から目玉を貫くかのように北上し佐倉を経由し成田線にて成田駅へ。
②京成線では日暮里から京成船橋にてチーバくんの顎から目玉を貫くように北上し京成成田へ。
…ここでの観光スポットは、やはり成田山新勝寺でしょうか。
それ以外、決して何もなくはありません、おそらくたぶん。
成田のすぐ南は江戸幕府の重要拠点であった佐倉藩の城下町広がり日本の考古・歴史・民俗の研究機関である歴史民俗博物館がある佐倉市。
成田から北に向かえば、利根川に沿うことができます。そこから東は水郷の町・佐原、利根川の河口であり漁港と醤油の町である銚子。
西はずっと行けば柏に松戸に流山など東京の東に隣接します。③柏から我孫子支線として成田線や、京成成田空港線でチーバくんの鼻から頭部に侵入し目玉を貫くラインもあります。
成田を中継地点として、千葉の魅力的な町々に行くこともできますね。
成田は新勝寺のほかに、成田国際空港施設はもちろん、西は香取海の一部であった印旛沼。チーバくんの眼球にあたる部分で、この北総地域の人々のくらしをささえた水源とも言えますね。
そのすぐ近くに、千葉唯一の考古専門機関であった「房総風土記の丘」が発展してできた、千葉の商家や武家屋敷に農村を体験できる「房総のむら」もあります。
さて、これまで関東を歩き回り、ついこないだまで羽田空港を描いてきた僕ですが、そのついでに今回は成田を描いていきたいと思います。
首都で大都会の東京の南は埋め立て地にある羽田空港と。
そんな東京から長い鉄道で結ばれた、国際線中心の成田空港。できれば比較していきながら、かつ、成田の歴史や今の町の魅力を伝えられればと思っています。
新勝寺の参道と、おいしいウナギ
成田のシンボルでもあるのが、成田山新勝寺ですね。
京成成田駅から、JR成田駅に着く手前の脇道に入ると、すぐに参道へ。
ショッピングを楽しみながら、坂を下ると新勝寺が見えてきます。
道の駅で千葉のお土産を楽しむのもよいですが、まずは羊羹を楽しみましょう。
成田の老舗和菓子店・米屋の総本店「なごみの米屋」の奥に、成田羊羹資料館があります。羊羹の歴史やその広がりを見てみましょう。
羊羹は、文字通り最初は「羊の羹(スープ)」であった。中国での、亀羹・猪羹・海老羹・羊羹などの四十八羹があったようだが、日本は仏教文化で生臭ものを食べないために、小豆や山芋に葛粉などを入れて羊の肝の形にしてふるまうようになったとか。
これ、中国の肉まんが日本のお饅頭になったのと同じですね。
やがて茶道の広まりにより、点心として汁とともに食べるものから、汁がなくなり江戸時代には蒸羊羹が広まり、寒天で固めた煉羊羹も作られるようになる。
成田新勝寺では栗入り蒸羊羹が主流で、米屋は栗入り煉羊羹を開発。
古き良き門前町をずっと歩いて行ったところで、うなぎの名店・川豊さんがありましたので、奮発して成田のうなぎを楽しむことにしました。
房総のむらで、歴史散歩を
JRで成田湯川駅からバスで。僕はこの日、空港支線で成田湯川駅に向かい、線路の壁の向こうにある印旛沼を撮影(下の地図画像の次)。
「房総のむら」見学後に印旛沼を間近で見ようと試み、歩いて接近しましたが立ち入り禁止道路のために印旛沼は見れず。歩いて安食駅まで戻り、帰宅しました。
それはともかく、房総のむらを目指しましょう!
「房総のむら」は、千葉の昔の街並みを、商家・民家・武家屋敷と、資料館で味わえる施設です。
入り口を通り、最初は商家の通りへ。江戸時代の頃の町に紛れ込んだ気持ちになります。
商家町の通りを抜け、藪蚊が五月蠅い森林地帯の奥に、かの千葉県考古学界隈で有名な風土記の丘資料館。
ここでは、多くの埴輪たちがこんにちわしてますよ!どうやら、この水辺広がる台地の豊かな土地は、さまざまな豪族たちが古墳をつくっていたようです。下総最大の前方後円墳である浅間山古墳には、金の冠や馬具などが見つかり、当時の朝廷での服装などの様式と共通するところがあるようで、印波国造などの有力者がこの地域を支配していたことでしょう。
館内では古墳の中に入れます。
そのほか、さまざまな時代の展示品がありましたが、僕が個人的に興味深く思ったのが、この下総地域ならではの特色、古墳にて遺体の頭部を固定するための「石枕」。
奈良でも見つかっているようだが、下総の特徴として馬蹄形であり周辺に立花がほどこされている。この立花のデザインがなんだかキリスト教の十字架っぽくもあり、人々の宗教的デザインの類似性なども思わせて興味深い。
風土記の丘資料館を出て、民家のある農村地帯へ。
途中で田んぼがあり、新米の季節を感じさせます。(当時、アニメ「天穂のサクナヒメ」を観ていたから余計に)
ちょうど稲刈りをして、稲架掛けの様子が見られました。米は、日本人の力だ!
山道の坂を上ると、民家がある農村地帯へ。
いつもの民家で、竈や囲炉裏、土間や座敷。
面白かったのが、刈った稲や麦などが並べられて干されていたり、甲府で見た蛍用の虫籠とそっくりな虫籠。ヘチマに蓑や笠、筵織り、茣蓙など。昔の人は、稲の副産物である藁などを多用し、竹細工やヘチマなどを枯らしてタワシ代わりにしたり。とにかく【茶色】だったのだなあとしみじみ。
村の外れに、結界みたいな飾りが。よく、村の端にあたる村境には、「道切り」といって、道祖神(藁人形や藁細工)や注連縄、または鳥居などを置いていたようなイメージである。
ここを抜けると、房総のむら最後の武家屋敷へ。
だだっ広い民家と比べて、狭くてコンパクトで台所も部屋も小さいのですが、床の間には刀、座敷には本を読む小さな机もあり、質素倹約・勤勉実直な感じがします。神棚に仏壇の位牌、外にひっそりと飾られた朝顔。
朝顔を見ると、「ひょっとして武士の内職かな?」とか思ってしまう(さきほどの商家の通りにも変化朝顔が飾られてあった)。
武士は食わねど高楊枝などと言いながら実際には、領地による禄高を食むだけでは生活ができず、内職で稼ぐしかなかった武士の台所事情なども髣髴とさせます。
武士の内職と言えば、傘張り(番傘づくり)のイメージでしょうが、たとえば将棋の聖地である天童の将棋の駒づくり、金魚の聖地である大和郡山の金魚の飼育は武士の内職によりはじまった名物であり、台東区の下谷の朝顔市は下谷御徒町(上野駅の隣)の徒組の下級武士の内職ではじまり、日本の変化朝顔(朝顔の突然変異の種類を開発して楽しむ)は世界に画期的な日本の園芸文化の1つともなった。
入り口に戻り、「ドラムの里」へ。ここは、地元の野菜など物産を買うことができる店があります。
ちなみに先述の通り、この日は成田の印旛沼を見に行こうと、房総のむらから安食駅まで歩き、さらに往復1時間半くらいかけて接近を試みましたが、立ち入り禁止により印旛沼の畔にたどり着けず。
以下、安食駅までの道すがらの、千葉の「谷津田」と台地の坂(山道)の風景もお楽しみください。
成田国際空港へ
みなさんは、成田国際空港に行ったことがありますか?
行ったことある人は、成田国際空港の敷地から出たことはありますか?
一見、何もなさそうな空港敷地の周囲。実は、様々なドラマが隠された場所なのです。
成田空港は、かつて新東京国際空港と名乗っていたが、羽田(東京国際空港)と比べて東京から遠く、そして周辺は辺鄙な場所と言える。
多くの人が集まる場所であろうなら、開発が進みショッピングモールができたり、遊園地などができたりと、行楽地として発達しても良かろう。
しかし、空港の事故や騒音などのためか、所詮は多くの観光客は空港をすぐに出て目的地へ向かうためか。まあ、空港は都市から離れた辺鄙な場所に設置されがちであるが。
それにしても、成田国際空港の周辺は原野ともいえる草地や山地や森林の茂りが見渡す限り広がっている。まあ、千葉の各地はこういうところも多いのだが。
ここ、三里塚や芝山の周辺を歩いてみると、静寂の中で飛行機の轟音が響き、後述する歴史的背景が頭によぎってくると、なんだか得も言われぬ緊張感すら感じてしまうのだ。
さて、ここに空港という世界最先端技術が結集します。成田空港から徒歩で30分程度、バスなら数分で行けます「航空博物館」です。
航空機のしくみ、内部のしくみ、過去のモデルや従業員の制服などが見学できます。
航空博物館では航空機の歴史や技術を学べたり、管制塔内を展示している屋上展望展示室では成田空港を一望でき、飛び行く航空機を見れたりそのアナウンスを聞くこともできます。
さて、成田国際空港は国際線が主で、近年のインバウンド需要もあり外国人で殺到しておりとても賑やかです。世界の玄関口として利用しない観光目的の僕も楽しむことができました。
話は変わります。みなさんは、「人身御供」って知ってますか。神に捧げる人を選び生贄として捧げることです。
たとえば、地域の昔の伝説で、洪水など水害に悩む人々が、生贄として人を水に沈める。自己犠牲の最たるもので、科学が発達した現代においてはとても愚かで残虐な発想です。
ただ、古来そういう生贄に選ばれた人々は英雄として称えられることもあり、残された家族はそれを決めた地域の有力者からそれなりの報酬を与えられる。
僕は、決してこれは昔の習慣として終わったものだというより、今でも残っていることがあると思うのです。
まず、徴兵制です。兵士として死の前線に送られ、そして生還しても命を落としても、個人や遺族は報いがある。
そして、僕はこれまでダムに沈んだ村々も調べてきました。
死とは違うかもしれませんが、生活の舞台であった家や故郷を犠牲に奪われる代わりに生活の保障などの報いがある。
航空博物館の近くにある、「成田空港 空と大地の歴史館」です。
戦後、これまでの羽田空港では増えていく航空需要に対して人や路線がパンクすることから新空港設置が計画されていた。場所は、東京湾沿いか、霞ケ浦などの案があったが、1966年に急転し6月22日に三里塚への空港建設案が初めて公表される。
翌日に大々的に報道され、三里塚と芝山の地元の人たちも初めて聞かされて困惑。ろくにコンセンサスが得られないまま、6月29日に運輸省が計画発表、知事がその受け入れを表明。
反対派の動きが活発になるも、7月4日に佐藤内閣で閣議決定がなされる。
さて、これから三里塚闘争にスポットを当てていこう。
地元住民だけでなく、新左翼や学生、政治家なども巻き込み武力闘争ともなり、死者も出たこの闘争は、今でも完全に決着しておらず、反対派の人々と、それを警戒する空港側の人々は動いており、観光客の監視や厳重な警備がなされている。