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小説探訪記05:中島敦『山月記』のラストシーンにのぼる月
今回もまた小説探訪記。昨日(2022/11/08)は皆既月食だった。今日は月にまつわる小説について。月に関する小説は数えきれないほど存在するが、やはり『山月記』はひとつ語っておきたい。『山月記』は決して、李徴が虎になるだけの小説ではない。タイトルには”月”が入っているのだから。
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(1)『山月記』における「月」
『山月記』の結末はこうであった。
一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺ながめた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。
最後の一行の中に「既に白く光を失った月」と出てくる。この月の描写は味わい深い。読者に多様な解釈をさせてくれる。自分なりに、この「月」をめぐる解釈について語っていきたい。
(1-1) 人間性のシンデレラタイム
シンデレラは12時になると魔法が解けてしまう。華麗なドレスはたちまち貧相な服に戻ってしまうことだろう。これは李徴も同じであった。人間の姿から虎に戻ってしまうということを、自ら悟っていた。「光を失った月」はそのタイムリミットを表しているのではないか。そんな風にも解釈できるのではないか。
月がぼんやりとその姿をくらませば、李徴はもはや人間には戻れない。朝が来れば、理性よりも獣心の方が勝ってしまうかもしれない。そんなことを予感させる。
(1-2) 月は瞳
あるいは、月を「目」に見立ててみよう。月の光は目の光である。月から光が失われれば、目からも光が失われる。『山月記』の最後において、李徴の顔が映ることはない。
であれば、月は李徴の表情、あるいは瞳の様態を代弁しているのではないか。そんなことも考えられる。月から光が失われたのであれば、李徴の瞳もまた光を失う。つまりは人間として死んでしまったことになるのではないか。あるいは、人間性を失ったのではないか。
もちろん、李徴が去った後の表情については知りようがない。知りようがないのだから、これも一つの挑戦的な解釈に過ぎない。が、こんな解釈があっても良いだろうと、私は思う。
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(1-3) 故郷への通路としての月
遣唐使であった阿倍仲麻呂はこんな和歌を詠んだ。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
「悠々と広がっている夜空を仰げば月が見えるが、あの月は故郷である春日の三笠の山にのぼる月と同じではないか」、拙訳ながら、大意はこんなところではないだろうか。唐から眺める月も、故郷から眺める月も同じ。であれば、月は離れた場所をつなぐ概念的な通路なのかもしれない。
李徴には俗世への未練があった。故郷に妻子も残している。あの月が光っている限り、その通路は開かれていたかもしれない。つまり、李徴も心変わりしてやり直したかもしれない。だが月は光を失った。もう俗世へは還らないし、還れない。李徴のそんな決心が月に現れているのかもしれない。
(1-4) 月と六ペンス
『月と六ペンス』、ある意味では『山月記』と相通ずる部分がある小説である。
(あらすじ)株式仲買人であった主人公・ストリックランドは、ある時、絵描きに転職する。芸術的野心は止まることなく、ついにはパリで築いた家庭をも捨て去って、南国へと赴く。南国で新しいインスピレーションを受けた彼は、偉大な作品を遺してひとり病死する。主人公・ストリックランドのモデルはゴーギャンである。
家庭と職務を捨ててまで詩作に励んだ李徴と、絵画制作に取り組んだストリックランド。唯一異なる点は、李徴は芸術的成功をおさめなかった一方、ストリックランドは芸術的に成功したことだ。2人の差異もまた面白い話題であるが、ここではタイトルの話をしたい。
『月と六ペンス』、一方は美と芸術の象徴である「月」、他方は俗世と経済の象徴である「六ペンス」。タイトルにはこのような対比が仕掛けられていた。
李徴には詩作の手腕が無かったというが、本当だったのだろうか? そんなことはなかった。微妙な点において欠けていると評しながらも、袁傪は確かに李徴の才能を認めていた。
袁傪は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随って書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。
何が欠けていたのか?、今回はその点は追究しない。だがしかし、ラストシーンで登場する「既に白く光を失った月」は、李徴の芸術的感性を的確に表現しているのではないか。月が芸術性の象徴だとすれば、『山月記』における「月」は、失われた芸術性を指し示すのかもしれない。
(2) 余談
その他にも月にまつわる小説や物語はいくつも存在している。また、月が中心ではないものの、月夜が印象的な作品はさらに多い。本来は小田雅久仁『残月記』、村上春樹『1Q84』などの話もしたかった。『竹取物語』の話もすべきだったし、稲垣足穂『一千一秒物語』も面白そうだ。
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