乗代雄介『二十四五』だけの読書メモ

 今回は乗代雄介『二十四五』を読む。この小説にも景子とゆき江が登場する。つまりは阿佐美家サーガに属する一作であり、他には『十七八より』「未熟な同感者」「最高の任務」「フィリフヨンカのべっぴんさん」がある。だが、関連作品のことは措いて、今回は『二十四五』だけを読んでいきたい。

 弟の結婚式に出席するために、作家になった景子は東北新幹線下り列車に乗って仙台へと向かう。そして式の最中あるいは前後で、様々な過去のこと――その中には叔母との体験も含まれる――を回想する。

 印象に残ったのは次の文章である。

叔母は、私が知るなかで最も本を読みながら私が訊かなければ本の話なんか少しもしない人間だった。そして、無邪気だった頃の私が自分の書いたものを読んでほしがり、年を重ねるごとに読まれるのを恐れ、でもいつか読んでくれるにちがいないと安心させもする、不整脈のように胸を縛るたった一人の読者であった。

乗代雄介『二十四五』講談社 pp.28-29

「たった一人の読者であった」(そして亡くなってしまった)叔母・ゆき江と、作家になった姪・景子、その関係を象徴しているかのような文章であり、本作を語るうえで外せなかった。

 気になるのは、他界した叔母のことを今でも「読者」として捉えているのか?、ということである。先ほどの引用でも「読者であった」と過去形であるから、景子は叔母の視線を内面化している(少なくともそれを自覚している)ということはなさそうだ。
 そして彼女は、叔母からは「書くという損な役回り」(p.66)を押しつけられており、景子と叔母でそれぞれ「書く」と「読む」という相補的な役割を担わされていると認識している。
 そうすると、彼女は叔母のように読むことはできないのだと自身で確信しているかのように映る。つまり、今となっては景子のテクストを(景子自身を含めて)叔母のように読んでくれる存在はいないということになる。

 すると、もはや景子には、叔母のことを第三者に語るための文章を書く必然性はあっても、叔母に読ませるための文章を書く必然性がなくなってしまう。読者の自分としてはそのように認識しているのだけど、そうなると報連相のくだりが気になってくる。景子は披露宴で弟とこのような会話をする。

〔景子から弟へ〕「報告・連絡・相談。あんたに言っときたいのは、私が家を離れても、連絡だけは忘れるなってことね」
「ホウとレンって何がちがうの?」
「指示されたことの結果や進捗を伝えるのが報告。何も言われていないけど知っておいた方がよさそうなことを伝えるのが連絡。私は家のことであんたに指示なんかしないから報告は存在しない。よほどのことでもなければ相談に乗るつもりもない。ただその代わり、連絡だけはしとけってこと」

同前 p.40 〔〕内は引用者

 景子は弟に対して(家族の義務として)、「連絡」を怠ってはならないと伝えた。では景子にも(故人とはいえ)家族である叔母に対して連絡する責務が発生するのではないだろうか?、そして景子の書いたテクストは叔母への「連絡」たりうるのだろうか?、というのが読者として引っかかっている。

 先ほどは必然性がないと言いながら、かえって「連絡」の責務が浮かび上がってくる。この矛盾の正体がわからない。もっと考え続けていけば、いつかわかる日が来るのだろうか。

【続くかも?】

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水石鉄二(みずいし)
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