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私の読書日記~尾崎翠『第七官界彷徨』と埴谷雄高『死霊』

尾崎翠おざきみどり第七官界彷徨だいななかんかいほうこう』と埴谷雄高はにやゆたか死霊しれい』――どちらの小説も目指した場所はまったく異なる。しかしながら本質的に似通っている部分もある。今日はその点をお話ししたい。

尾崎翠『第七官界彷徨』

尾崎翠『第七官界彷徨』は、人間の第七官――これは恋をしているときに働くという――に響く詩を書こうと奮闘する少女の話である。五感に直感的でオカルティックな第六感……その先に第七官という神秘的な器官があるらしいのだ。その第七官に響くよう少女は詩を書きつづける。彼女を見守っている兄たちといとこの存在も見逃せない。

長男と思われる一助は精神科で働いている。次男と思われる二助はこけの研究に没頭しており、いとこの三五郎は音大受験を続けている浪人生である。家の中でオペラをよく歌っている。(彼らのテンションはミュージカル役者のように高い。)

作品タイトルからSF小説を想像してしまうかもしれないが、実際は鋭敏な心理描写に裏打ちされた少女漫画的な小説である。登場人物たちの高揚感は狂気スレスレ。彼女らのテンションについていけない読者も出るかもしれないが、個人的には完成度の高い小説だと判断している。

埴谷雄高『死霊』

こちらも登場人物たちのテンションが高い小説である。哲学的な議論によって展開を進めていく小説なので、内容はとても難しい。

しかしながら、高揚感をともなった狂気をはらむ登場人物たちのおかげで、読んでいても退屈はしない。彼らのテンションは高い。ドストエフスキーの小説の人々やトーマス・マン『魔の山』ハンス・カストルプを思い出されると、理解しやすい。

もともとは共産主義運動の挫折と思想的展開を下敷きにしているが、舞台は精神病院になっている。イエス・キリストや釈迦を引き合いに出しながら、魚や植物に彼らの思想的な弱点を告発させる劇中劇的な構成や、身体をそぎ落とし自意識だけになったような〈虚体きょたい〉という存在。そういった考察しがいのある要素がちりばめられている。まちがいなく上級者向けの小説だろう。

ふたつの作品を見比べて

尾崎翠『第七官界彷徨だいななかんかいほうこう』と埴谷雄高『死霊しれい』を見比べてみると、そこには大きな共通点がある。どちらも登場人物が高揚感をともなった狂気をはらんでいるということである。それは一種躁的でもある。

狂気の小説となると、どうしても社会(世間)との接続が希薄な共同体がつきものとなる。学校や病院、刑務所……。制御不可能に周囲から映る人間は社会から隔離され、監獄に送られてしまう。ミシェル・フーコーじみたことを言っているが、埴谷雄高『死霊』の世界はまさしくそうであろう。作品の舞台は精神病院となっている。そこで狂気的な議論が行われている。

一方で、尾崎翠『第七官界彷徨』の舞台は家族だ。登場人物の対話の舞台となるのは、あくまでも家庭のことである。社会との接続が希薄な共同体ではあるから、やはりフーコー的な狂気の小説とカテゴライズしても問題はないのかもしれない。

しかしながら家族という点も見逃せない。本作の舞台は学校や病院や刑務所の中ではない。このことに、社会の監視がまだ緩かったころへの安堵感を覚えずにはいられなかった。

※正気が善で狂気が悪であるとは限らない。むしろ、正気が暴走する方がよほど質が悪いことだと考えている。また、積極的に正気に属したいとも思わないし、意識的に自分を正気と位置付けたいとも思わない。その点だけ但し書きをしておく。

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水石鉄二(みずいし)
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