《反省しない人々》 ありがとうもごめんなさいもいらない森の民 第二部
プナン民族は「日々生きているだけで反省のようなことはしない」
プナン民族の村で暮らし始めた奥野氏。そこで待っていたカルチャーショックとは。
🌳プナン語には反省するという内容にずばり対応する言葉がない。
🌳失敗や不首尾、過失についてプナンは個人に責任を求めたり「個人的に」反省を強いるようなことはしない。
🌳プナン社会には自死や精神的ストレスというものがない
🇯🇵日本だと営業や学業の不振や停滞は個人の怠慢であり目標の未達は個人の努力不足であり場合によってはその失態は数値化されることで反省を個人の内面へと強いるということが行われている。
🇯🇵個人へと責任を帰着させる時、個人は精神的にも肉体的にも大きなダメージを受ける。
失敗に対する現代人と狩猟民族社会の対応は真逆である。
個人を責めず集団で緩やかな方向としてまとまっていくか、徹底的に個人を責め二度と過失を起こさせないよう反省させ成長を促すか。
資本主義社会における経済成長至上主義は人の心までも侵してきた。行き過ぎた《超自我》に対抗するように本当の豊かさに気付き始める人々が増えてきているのではないか。
プナンは「後悔」「残念」という感情は持つけれど「〜しなければならなかった」「〜したほうが良かった」という思考はしない。
現代人は何故反省するのか、反省するようになったのかと自らに問わなければならないと、奥野氏は言う。
🕰直線的な時間軸の中で将来的に向上することを動機付けられている私達の社会。より良き未来の姿を描いて反省することを求められる。
💫プナンにそういった直線的な時間感覚とそれをベースにした精神性はない。
反省するというのは社会的道徳。
道徳というものは自分の心から発生しているものではない。
・こうしてはいけない
・こうありたい
・こうであるべき
社会的な家族的な《超自我》の押し付けなのだ。
人を想う気持ち。
動植物を想う気持ち。
物を想う気持ち。
それらは本来魂的なところからやってくるものなのだ。
さて、現代人であるぼくたちがプナンのように生きるのは至難の業だ。
しかし、現代人も自己と他者の軋轢を柔らかくするために色々なコミュニケーション方法を試みてはいるのだ。
今回は《真菰娘》あしびなさんの記事よりアサーションという方法を紹介したい。
ぼくらは縄文社会に憧れることは出来る。それを思い描き生き方の参考にすることも出来るが、縄文人に戻ることは出来ないし、プナンのような森の生活を営むことも難しい。
しかし、元々主語を省略する日本語を使うぼくら日本人にとって自己(I)と他者(You)の入れ替えは少し練習すれば出来るのではないか。少しの工夫と気遣いで、今までとは違う自己他者の関係を創る事はできるのである。今の社会の中で自己と他者の関係の中に心の森を育てる事は出来るかもしれないのだ。
ヘッダー画像はこちらよりお借りしました。
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ナマステ✨🌳✨
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