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【短編小説】ズワイガニ

 ──うわ、ママのヤツ、来やがった。

 年が明けて最初の授業参観日、高校1年の太郎は、母に絶対に来ないようにと何度も念押ししたにもかかわらず、ばっちりメイクをして着飾ってきたド派手な母親が教室の後ろのドアから入ってきたのを見て、ため息をついた。ドギツい香水が一番前の席の太郎の元へも届いたので、見る前に気づいたというのが正しい。この母を持ったお陰で、今までどんなに恥ずかしい思いをしてきたことか……太郎は机に突っ伏した。

 ──誰も俺の気苦労を分かっちゃいないんだ。

「ほら、太郎くん、寝ちゃダメよ」

 ぶちゃこ先生に小声で言われ、仕方なく上体を起こした。担任のぶちゃこは国語を教えている。母よりも大分年上だと思うが、授業参観だからと張り切り、薄ピンク色の短いワンピースを着て、豚よりも太い足を惜しげもなく披露しているのだ。

 ──俺の周りにはまともなババアがいない。

「五右衛門に助けられたキツネさんの気持ちはどんなものでしたか? 分かる人、手を挙げてください」

 どこの高校にも受からない出来損ないたちが集まるこの私立男子校の授業は、まるで小学校低学年レベルである。

「はい、長谷川くん」

「五右衛門を土左衛門にしたくなった」

「違います。木下くん」

「五右衛門をドラえもんに変身させたくなった」

「もういいです」

 ろくでもない答えに、生徒からも親もからも失笑がもれる。そのとき、教室の前の扉がガラガラと凄まじい音を立てて開いた。教頭の魚頭うおがしらである。

「突然失礼します、ぶちゃこ先生、ちょっと……」

 魚頭はぶちゃこに近づき、1枚の書類を見せながら何かを耳打ちした。ぶちゃこは信じられないと言うように目を見開き、一瞬太郎の顔をチラリと見た。

 ──は? なんなんだよ。

「えー、大変申し訳ないのですが、ちょっと事情がありまして、本日の授業参観はこれにてお開きにさせていただきます」

 ぶちゃこは魚頭が隣にいることに力を得て、クレームが出そうな事柄にも関わらず、弱々しい声になる事なく言い切った。当然、ええっ!? というどよめきが起こったが、卒業することだけを目的に学校に通っている悪ガキどもは、空いた時間で何をして遊ぼうかと、切り替えの速さは超一流である。
 ぶちゃこと魚頭が平謝りして保護者を送り出しているとき、

「太郎くんとお母さんは、このままお待ちください」

と、ぶちゃこに呼び止められ、ふたりは教室に残ることになった。

 ──最悪だ。

 皆が出て行くと、ぶちゃこと魚頭は4つの机を移動して、太郎親子と対面して話せるようにしつらえた。

「申し訳ありません、お時間を取らせてしまって。どうぞ、お座りください」

 魚頭が切り出し、皆一斉に席についた。

「え〜、大変言いにくいことなのですが、このままでは太郎くんは進級できません」

「は!?」

 ぶちゃこの言葉に、太郎も太郎ママも目が点である。

「なんでだよ、先生。俺、別に成績悪くないよね」

「でもね、太郎くん、ほら、この進級調査結果に『来年度第一学年』って書いてあるのよ」

「何かの間違いではごさいませんの?」

 太郎ママも必死に食い下がる。

「お母さん、申し上げにくいことですが、この書類に間違いはないんです」

 いつになく真剣な面持ちの魚頭の言い草は、太郎に真実だと納得させるのに十分機能した。

 ──こんな綺麗なお母さんを目の前にしたら誰だってなあ……俺みたいな男ヤモメには目の毒だ。

 魚頭の目がハートの形になっているのに気づいたぶちゃこは、太郎と母親に気づかれないよう、魚頭の脚の甲を踏んづけた。

 ──なによ、デレデレしちゃって。あんたには私という相手がいるでしょ! バカ魚頭!

 口を少し歪ませただけでぶちゃこの嫌がらせをやり過ごした魚頭は、我ながら大したものだと自信がつき、頬に赤みのさしてきた太郎ママが思わず目を逸らすほどに熱く見つめ続けた。

「わ、分かりました。では、留年の理由を教えていただけますか?」

「書類に書いてあるから──これが理由です」

「そんなふざけたことってあるかよ!」

 この状況に苛立ちを募らせていた太郎が、思わず立ち上がり、机をバンと叩きながら叫んだ。

「じゃあ太郎くん、試しにさっきの続きをしてみましょう。キツネさんはどんな気持ちだったのか分かる?」

「えっ……? えっと……ど、ど、土左衛門を五右衛門にして、ど、ドラえもんが変身した……だっけ?」

 大人3人から憐れみの目を向けられ、太郎の顔は真っ赤になって、そのまま力なく椅子に座った。

「太郎くん、分かった? あなたには想像力のカケラもないのよ」

 ぶちゃこに優しく言われ、太郎は机に額を乗せた。

 ──下の子たちの面倒を見るのに忙しくて、この子に絵本を読んであげられなかったからかしら……。

 太郎ママは、太郎の幼い頃のことを思い出し、ひとり罪悪感を抱いていた。魚頭は太郎ママの変化を目ざとく読み取り、

「そうだ、いいものがあります。ちょっと持ってきますね。それを見れば、太郎くんも想像力を取り戻せるかもしれません」

 魚頭はぶちゃこを伴い素早く教室を出て、すぐに戻ってきた。その手には、大きな皿に盛りだくさんのズワイガニが……。ぶちゃこは紙の取り皿と2リットルのペットボトルのお茶と紙コップ。魚頭は皿を太郎の目の前に置くと、太郎ママに向かって嬉しそうに話し始めた。

「正月用に注文した冷凍ズワイガニなんですけどね、なにしろ独り身なもので、たんまりと余ってしまったんですよ。それで学校の先生たちにお裾分けと思って持ってきていたんですがね、いい機会だから、皆で食べませんか? でもその前に、太郎くんに、どんなふうに食べたら美味しそうに見えるのか、想像力を駆使して演じてもらおうと思いましてね」

「あら、面白いですわね。太郎、やってみてちょうだい」

 太郎は先ほどの汚名を晴らすべく、しばしズワイガニを見つめてから、ふたつのハサミを両手に持って、ニヤニヤし始めた。

「わっ、カニさんだ、美味しそ〜! 僕はカニだけど、仲間を食べちゃうぞ! パクパク。あ、カニオさん、やめて! でも美味しそうだから私も。パクパク。カニコちゃんの身をつついちゃうぞ! ツンツン。じゃあ私もカニオさんを食べちゃいましょう。ガブガブ。お互いに食べ合うなんて素晴らしいことじゃないか。そうね、これぞ究極の愛よね。ギャブギャブ。あ〜、お腹いっぱい! じゃあ、あの世で会おう! そうね、ひとまずさようなら!……ガクン」

 ──まあ、太郎が童心に帰ってるわ!

 ほほ笑ましく見ていたのは太郎ママだけだった。魚頭とぶちゃこは表情を何ひとつ変えず、幼な子のような太郎の前に対峙していた。太郎はふたりの様子にはっと気がついて、ハサミを置いて項垂れた。

 ──ちくしょう、赤っ恥さらしてこのザマかよ……なんて日だ!

「お母さん……今のでお分かりだと思いますが、残念ながら、これでは書類を書き換えるわけにはいきません」

 魚頭の言葉を受け、太郎ママは目尻に溜まってきた涙をハンカチで拭った。そのとき、教室の後ろの扉が遠慮がちに開き、吉男が顔を覗かせた。

「あのー、すいません、忘れ物しちゃって……」

「いいわよ、入りなさい」

 ぶちゃこの許しを得た吉男は、皆の視線を感じながら、そろそろと窓際の1番後ろの自分の席へと向かい、机の中をあさって必要なものをカバンに入れ、

「どうも、失礼しました」

と頭をペコペコ下げながら扉へ向かった。吉男が扉を開けた瞬間、

「そうだ、吉男! 聞きたいことがあるんだった!」

と太郎が叫び、吉男の元へ駆けつけた。わざとらしくないように絶妙な速さで教室の扉を閉め、ふたりは廊下へ出た。

「なあ吉男、アレ貸してくれよ」

 小声で言ってきた太郎に、吉男は何のことか分からず、

「え? アレって何」

「俺知ってるんだよね、お前がいつも酒持ち歩いてんの」

 ──ええー!? バレてた……?

「そ、そ、そ、それがどうしたの?」

「今どうしても必要でさ、頼む。人助けと思って。お前の物ってことは命を賭けても誰にも言わないから」

 普段クールで物静かな太郎がここまで言うには余程の理由があるのだと思った吉男は、うんと小さく頷き、カバンの中に手を入れウイスキーの小瓶をつかみ、きょろきょろと周りを見て、誰もいないことを確かめてから太郎に手渡した。

「サンキュー、吉男。恩に着るよ」

 太郎がほほ笑んだので、吉男も嬉しくなって、これから仲良くなれそうだと淡い期待を抱きつつ別れた。
 吉男を見送った太郎は、ズボンの後ろのポケットにウイスキーを入れた。ゆっくりと扉を開けて大人たちの様子を見ると、ぶちゃこが4つのコップにお茶を注いでいた。

「まあ、残念ながらもう留年も決まったことなので、皆で食べましょう。次こそは進学できるよう、前祝いということで」

 魚頭が音頭をとり、皆配られたお茶を手に持ち、

「乾杯!」

と宴が始まった。涙はおさまったものの、時折鼻をすする太郎ママを慰めるように、

「お母さん、食べて食べて」

と、魚頭が気前よく勧め、取り皿に足を数本入れて太郎ママの前に置いた。

「はい……ありがとうございます、いただきます」

「太郎くんも食べなさい」

 ぶちゃこは太郎の分を取り分け、差し出した。

「あ、そういえば先生、今廊下に出たときに、変な叫び声みたいなのが聞こえたんだけど……」

「えー? なになに、ちょっと見てくるわ」

 ぶちゃこは教室を出た。

「あ、今校庭で何か光ったよ」

 太郎の言葉に、魚頭がなんだなんだと窓際に向かった瞬間、太郎はウイスキーを取り出して、先生ふたりのお茶の中に少し入れた。太郎ママはギョッとしたが、何も言わなかった。太郎が瓶をポケットに戻した瞬間に、窓から校庭を見ていた魚頭がくるっと身をひるがえし、

「何もなかったぞ」

と言って戻ってきた。

「そう? 変だな……」

 太郎が答え終わると、扉が開き、ぶちゃこが戻って来た。

「特に変わったことはなかったわ。何だったのかしらね」

 その後、皆でズワイガニを食べ続け、太郎は先生たちが目を離している隙を見ては、コップにウイスキーを少しずつ足していった。魚頭とぶちゃこは、時間が経つにつれ、顔に赤味がさし、声が大きくなってきた。

「ぶちゃこ先生、アレを持ってきてくれ」

「え? いいんですか?」

 うんうんと気分良く頷く魚頭を見て、ぶちゃこもしょうがないわねと席を立ち、教室から出て行った。

「お母さん、この季節にしか見られない特別なものをお見せしましょう」

 このときを待ってましたとばかりに魚頭が勢いよく立ち上がり、太郎ママを窓際に誘導した。

「西の入り江に、夕日が沈むのが見えるんです。どうです、美しいでしょう」

「まあ、素敵」

 調子に乗った魚頭の手が母の腰に回り、母も満更でもなさそうな様子なので、太郎は吐き気を覚えたが、

 ──今しかない!

と、ぶちゃこの座っていた席に置いてある書類の「来年度第一学年」の「一」に、近くにあったボールペンで線をひとつつけ足した。ペンを置いた瞬間にぶちゃこが戻り、魚頭と母もはっとして席に戻ってきた。

「あら、魚頭先生、何をしていらしたのかしらね」

 ぶちゃこのトゲのある言い回しに苦笑いで済ませた魚頭は、

「お、持ってきてくれたね、ありがとう」

と濁して、ぶちゃこからビール瓶を受け取った。

「さあ、飲んで飲んで」

 太郎以外の皆に注ぎ、大人たちが2度目の乾杯を済ませると、太郎が「あっ!」と叫び、


「先生、書類にちゃんと『来年度第二学年』って書いてあるじゃん!」

と指を差した。

「え? どれどれ……あら、本当だわ……魚頭先生、これ見てください」

「ん? お、太郎くんの言う通り、第二学年になってるぞ……僕たちの見間違いだったのかな……」

「じゃあ、俺、留年なしってこと?」

 ぶちゃこと魚頭は不思議そうに顔を見合わせてから、自分たちの非を水に流すように笑顔を取り繕い、太郎に頷いて見せた。

「そ、そうね、書類にちゃんと書いてあるからね」

「やったー!」

 太郎と太郎ママは抱き合って喜んだ。

 ──作戦成功! ママに泣かれたら、そりゃ誰だって応えるだろ……。

「ではやり直しましょう。太郎くんの進級を祝って、乾杯!」

 皆がビールを一気に流し込んでいるのを見て、太郎もビール瓶を手に取り、自分のコップに注ごうとした瞬間、3人の大人たちの口が同時に開かれた。

「お前は飲むなー!」

(了)

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