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【短編小説】ウサギ石②

 吉男が施設に入れられてからしばらくは、太郎の頭は吉男のことでいっぱいだったけれど、月日が経つにつれ、思い出す時間は徐々に減ってゆき、時折はっと吉男のことが思い浮かぶと、忘れていたことを申し訳なく思うのだが、忘却は、何もしてあげられなかったという罪悪感に押し潰されないための防衛本能かもしれなかった。あえて思い出そうとするのも、そのわざとらしさが失礼な気がして、おのれの内なる葛藤を鎮めるために、自然でいればいいのだと言い聞かせ、幼な心にも諦念のようなものが芽生えてきつつあった。

 地元の中学に入ったが、学校の部活には入らず、電車で片道30分かけて、全国大会の常連のサッカーのクラブチームに通うことになった。土日祝日はもちろんのこと、平日も週に2、3日は練習である。暗くなってから帰宅なので、広場のカムロ隊の活動は終わっているし、学校も広場とは反対方向なので、大洋と会う機会はめっきり減ってしまった。高校3年生の大洋も、受験に備え、カムロ隊の活動は控えているのだと、同じ学校に通う大洋の弟の大地から聞いた。吉男の母が亡くなった日に、暗くなってから駆けつけた太郎のことを介抱し、家まで送り届けてくれた大洋のことを、憧れのお兄さんにはとどまらない思いで見ていたことを、会えなくなった今になって太郎は自覚した。広場でパトロールしている姿を見たり、お互いに気づいて手を振るという、ほんの些細なことだったけれど、どれだけ心が潤されていたことか……

 その年の夏休みのサッカーの練習中、急な豪雨に襲われ、雷もピキピキ至るところに落ちてきて、雨は止んでもグラウンドがぬかるんでしまったので、練習は中止となり、珍しく明るいうちに最寄駅に着いた。駅から出ると街並みが恐ろしいほど真っ赤に染まっていたので、しばし見入っていると、

「太郎くん」

と横から声をかけられた。大洋だった。太郎の胸は早鐘を打ち始めた。

「びっくりしたよ、こんなに背が伸びてて。抜かされちゃいそうだね」

 大洋は右手を太郎の頭に乗せ、水平を保ちながら自分の眉のあたりに持ってきた。

「一緒に帰ろっか?」

 大洋の誘いに「うん」と答え、長い影を斜め前方に並べながら歩き始めた。

「サッカー頑張ってるんだね。大地から聞いてるよ」

「大洋くんも、受験勉強でしょ?」

「うん、塾の帰りだよ」

「どこの大学に行くの?」

「東京だよ。受かったら一人暮らしするよ」

「そうなんだ……」

「やっぱり警察になりたくてさ。まずは大学に行くよ。ここの警察は腐ってるから、根本から立て直したいんだ」

「うん」

 離れて暮らすのは寂しいなという思いに支配されていたので、その後のたわいない話は上の空のまま、分かれ道に着いた。

「じゃあね、太郎くん。サッカー頑張ってね」

「うん、ありがとう」

 向かい合い、互いに見つめ合ったが、太郎は別れを笑顔で誤魔化すことができなかった。太郎の視線の奥にある意味を読み取ったのか、大洋も動けずにいた。数秒の後、大洋の目に寂しさのカケラ、、、のようなものが飛来し、右手を太郎に差し出した。束の間ためらった太郎だったが、おもむろに右手を近づけ、2人は握手をして別れた。

 その後は大洋と会うこともなく、夏はひぐらしの声とともに終わり、秋は冬と行ったり来たりしながら、気づけばフェイドアウトしていた。雪とは無縁の正月が過ぎ、大洋は無事に大学に合格し、東京へ越してしまった。春を迎えても、太郎の心はちらちら小雪が降り続いているように薄暗く寂しいものだった。
 あの日……夕日の中で別れた日、互いに見つめ合った数秒間……大洋が握手を求めてくる直前の交感に、太郎はかろうじて救いを感じていた。あの一瞬の出来事がなかったら、自分はどうなっていたのだろう……あの目を思い出すと、大洋がそばにいるような気がする。その直後に大洋に兆した寂しさの源と、握手を求めてきた理由も痛いほど分かる。きっと僕たちは、ああするより他に、どうすることもできなかったんだ……

 中学3年生になった太郎は、ストライカーとして不動の地位を保っていた。全国トップクラスのサッカーの強豪校へ推薦で入学することも決まり、親元を遠く離れての寮生活が始まるのだ。その前に、年末に行われる中学サッカー日本一を決める大会があり、太郎のチームは順調に勝ち進んでいった。
 いよいよ決勝戦、大歓声の中試合が始まり、太郎も最初から飛ばしてどんどんゴールを狙った。こちらが1点入れると相手も1点、また入れると入れ返され、2対2のまま延長戦に突入した。ホイッスルが鳴るやいなや、相手が速攻で攻撃を仕掛けてきて、開始2分でものの見事に入れられてしまった。衝撃を隠せないチームメイトたちを、太郎のチームのキャプテンは必死になって盛り立てようと、声を張り上げた。

「太郎、取り返すぞ!」

 キャプテンの呼びかけに、太郎も自らを奮い立たせ、隙あらばゴールを狙った。前半は終わり、後半戦、後がない太郎たちの死に物狂いの反撃が始まった。とにかく前へ、前へ! 疲れているのなんて理由にならない。皆一丸となり、ボールに神経を集中させたが、相手も必死でゴールを守る。審判が時計を気にし始め、ホイッスルを口に当てた直後、太郎は破れかぶれでロングシュートを放つと、ボールは弓なりに相手のディフェンスの頭上を通過し、ジャンプしたキーパーの指を掠めたが、そのままゴールポストの角へ吸い込まれた。その直後に大きなホイッスルの音が響いた。

「やったー!」

「同点だ!」

 太郎が皆にもみくちゃにされながら雄叫びをあげたのも束の間、すぐにPK戦に突入である。両チーム4人終わった時点で、またも2対2。皆が固唾を呑むエース対決に勝負は委ねられた。まずは相手チームのエースのシュート! おおっと、キーパーのミラクルガードで止められた! 項垂れるエースとドヤ顔のキーパーのコントラストは天国と地獄そのものです。最後のキックは太郎! ゆっくり助走をつけて3・2・1……シュート、決まった! 太郎のチームが中学生トップに輝きました! おめでとう、おめでとう!
 仲間と抱き合い、ど突き合い、狂乱の歓喜を堪能してから、太郎が大盛り上がりの会場に目を転じると、1番前の席にこちらをじっと見据える男の視線を感じた……大洋だ! まさか来ていたとは……太郎はボディタッチしてくるチームメイトそっち退けで、立ち止まったまま大洋と見つめ合っていた。見ててくれたんだ……ありがとう……最後のゴール格好良かったよ……さすが太郎くん……頑張ってプロになるんだよ……心の中で会話してから、大洋はふと微笑み、くるりと後ろを向いて歩き出した。

「大洋くん、行かないで!」

 太郎は大洋の姿を追って、チームメイトの流れに逆らった。

「大洋くん、大洋くん!」

 悲痛な太郎の叫びは歓声に消され、大洋も人波にのまれて見えなくなってしまった。太郎の顔は涙でぐちゃぐちゃになり、原型を失うほどだった。

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