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【短編小説】ウサギ石①

 コツコツ。
 太郎が吉男の家のドアをノックすると、失業中の父親が酒の匂いをぷんぷんさせて出てきた。

「おう、太郎くんか」

「おじちゃん、こんにちは。これ、吉男くんの連絡帳」

「おう、サンキューな」

「明日は学校来る?」

「ああ、行けると思うぞ」

「分かった、じゃあね」

「あっ、待て待て、広場にいるヤツらには気をつけろよ。あいつら、相手が子どもかどうかなんて関係ないからな。時間も金も吸い取られちまう。引っかかると俺みたいになるぞ」

 父親は卑屈な薄ら笑いを浮かべた。お決まりの別れの挨拶だ。

「うん、気をつける。じゃあね」

 吉男は太郎の幼稚園からの幼馴染みで、以前は3軒隣のご近所さんだったのだが、卒園前に小児麻痺にかかり、悲観した父は酒に溺れ仕事を辞め家を売り払った。広場を隔てた公営住宅の1階に空きが出ると車椅子の吉男家族は優先的に入れることになり、1年生の途中になって引っ越した。学校では特殊学級に在籍しているが、体の調子がすぐれないときも多く、休みがちである。3年生になった今でも、連絡係は太郎というのが、教師たちの暗黙の了解だ。
 広場というのは大きな公園で、ドヤ街が近いので、日雇い労働者たちのたまり場となっている。彼らに目を付け、あらゆるレースの予想屋たちが集まり、人が人を呼び、自治体も広場の一角に公営ギャンブルの自動券売機を何台も設置したので、その方面の一大聖地となってしまった。吉男の父親も、ここでなけなしの金をせっせと使い、ほぼ毎晩絶望を味わっている。
 吉男の家からの帰り道、猛ダッシュした太郎は喉が渇いたので、広場の隅にある水道で水を飲んでいたら、

「君、何年生?」

と、スーツを着た若い男に声をかけられた。太郎は蛇口を締め体を起こして、

「3年生です」

と答えた。

「こっちにおいでよ、いいこと教えてあげるよ」

 優しそうだし、悪い人じゃなさそうだ……と太郎が思った瞬間、ピピッと短く笛の音が響いた。

「子どもに声をかけないでください。警察に引き渡しますよ」

と、赤いTシャツを着た中学生らしい男2人組が威厳に満ちた態度で男に言い放つと、男は顔を曇らせて、すごすごとその場から去った。彼らは"青少年自警団カムロ隊"のメンバーである。ギャンブル関連の汚職がまかり通り、正常に機能していないこの地域の警察に代わり、中学生から大学生までの有志の男女で組織され、自主的にパトロールなどをし、子どもたちを守っているのである。2人組は太郎に近づき、

「ここにいる大人の言うことは聞いたらダメだよ。真面目そうに見えたけど、今の人は予想屋だからね。子どものころから馴染みになってもらおうと、君くらいの年の子たちにも平気で声をかけてくるから、気をつけるんだよ」

と優しく諭した。こくりと頷いた太郎を見て、

「あれ? 君、サッカークラブの太郎くん?」

と、今話した少年ではなく、少し背の低い方が聞いてきた。

「うん」

「僕は君のチームメイトの大地のお兄ちゃんの大洋たいようだよ」

 太郎の顔にぱっと光が射した。

「この前の試合で、ひとりで3点も決めたんだってね。みんな、君がプロのサッカー選手になるだろうって言ってるよ」

 大洋の話に、もうひとりも、それはずごいと感心している。大洋は中腰になり、太郎の頭を撫でながら、

「頑張ってね。こんなところに関わって未来を潰しちゃダメだ。寄り道せずに、前だけを向いて走り続けるんだよ」

と言って白い歯を見せた。太郎はじわっと顔中が熱くなるのを感じた。それは、生まれて初めて自分で認識した恥ずかしいという感情だった。

「じゃあ、気をつけてね」

 大洋に背中を押され、ダッシュしてその場を離れ、家に向かった。

 代わり映えのしない日常がいたずらに時間を消費してゆくのに抗うように、太郎のサッカーの腕前はメキメキと上がり、体を動かせない吉男の体重は、5年生ながら3桁の大台に乗りそうである。
 低学年のときは、太郎と吉男の教室は同じ階にあったので、休み時間になるとクラスの友達を誘って、ときどき吉男の教室に遊びに行き、先生に注意されながらも車椅子を押したり回したりして吉男を楽しませたり、校庭で拾ったドングリや石などをお土産にあげたりしていたが、高学年になって階が変わり、太郎も他の友達と遊ぶのに忙しく、徐々に2人は疎遠になっていったが、連絡帳の橋渡し役は続けていた。吉男の家への往復は広場の横にある道を通っていたが、前に大洋に注意されてからは気をつけて、広場に入ることはしなかった。歩きながら眺めて、いつも大洋の姿を探し、大洋が気がついたときには手を振り合った。

 その年のあるドカ雪が降った朝、広場のはずれで凍死している男が見つかった。吉男の父だった。手元には酒の瓶が転がっていた。家を売り払った金は全てギャンブルと酒代に消えていた。金を湯水のように使ってしまう人間がいなくなり、吉男と母は生活保護を受け、暮らし向きは楽になったが、自分の2倍も重い吉男の介護をひとりで担うのは並大抵の苦労ではなく、穀潰しの夫ではあったけれども、その存在意義を今さらになって気づいた母は、日に日に気力と体力を落としていった。

「こんにちは」

 吉男の父親が亡くなって数週間後、太郎が吉男の家に連絡帳を届けに来ると、母親の顔にいつにも増して生気がないのを見て取った。おばちゃん、大丈夫かな……という太郎の心配は、その次の日に現実のものとなった。母親が自ら命を断ったのである。吉男を学校へ迎えに行って帰宅してから数分以内の出来事であった。声を上手く出せない吉男がずっとおうおう叫んでいるのを変だと思った近所の主婦が、同じ団地内に住むカムロ隊の中学生が広場へ活動に向かうところを捕まえて、一緒に様子を見に行き、玄関のドアに鍵がかかっていなかったので発覚したのだった。その中学生が今日のパトロールでパートナーとして組むことになっていたのが高校1年生の大洋だったので、電話して呼び寄せた。吉男の部屋に太郎と2人で写っている写真を大洋が見つけたので、太郎の家にも連絡が入り、太郎がサッカーの練習から帰って母からそのことを聞いてすぐに駆けつけると、警察や救急隊や見物人でごった返す中に赤いジャンパーを着た大洋を見つけ、太郎がそばに寄った瞬間、吉男が車椅子に乗せられて、数名の大人の手で外に連れ出されてきた。

「吉男くん!」

 太郎が必死で叫ぶと、吉男は太郎のことに気がつき、じっと見つめていたが、大人たちによってワゴン車に乗せられてしまった。

「吉男くんは施設に入るんだ」

 大洋が太郎の肩を抱き、静かに言った。車が去ってゆくのを見届けると、急に涙が溢れてきた。大洋は太郎の震える体を、ジャンパーの上からしっかりと抱きしめた。



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