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イヤホン、時々ヘッドホン

人々が、私のすぐそば、そしてちょっと遠く、あるいは視界より先の空間になる。空間を形作るのは生物や建造物や様々なアイテムなど物体の存在そのものと、さらにその物体から生成される「音」も含まれると思っている。

その「音」は鼓膜が振動して脳に届くような単独で単純なものに限らない。私は、「聞こえない音」の動きを感じることがしばしば、いや、きっと常にそうである。(「聞こえない音」について明言することはちょっと難しいから避けたい)「聞こえない音」が聞こえて気が散ってしまうことで、怪我をしやすかったり人の話が聞こえなくなったりすることがよくある。事実つい最近、音に気を取られて人に正面からぶつかってみたり包丁で手を切ったり階段で転んだりしている。

人の話が聞こえないというのはこういうことだ。
友達と2人、教室で話をしていた。講義前の教室はそれなりに人がいて集団ごとに会話をしている。各集団は特に大声なんかではなく普通のトーンで話していて、そして私が話をする相手は目の前にいるただ1人だけである。それなのに教室全体の音に気を取られ、すぐ近くで向き合っている1人の声が耳に入らない。その時、私は自分自身の音への柔軟性に関してかなり深刻だと思った。

私は音楽が好きというのがいちばんの理由で、そして次に外界の音を遮断するというのが理由でヘッドホンをつけている。最近は夏の暑さでヘッドホンをつけていられないことが増えたため、ノイズキャンセリング機能を懐かしみながらiPhoneを買った時についてきたありがたいイヤホンを代わりにしている。(そういえば、最近は音楽を流さずファッションのためだけにヘッドホンをつけている若者が結構いると知って驚いた。)

冬に地元に帰省した際、私はどこに行くにしてもヘッドホンを持っていくのを忘れた。音楽を聞くという目的がないときに限るが、この私が、ヘッドホンを忘れるということはつまり、そういうことだと思った。東京がうるさいのだ。

自転車にまたがって、幼い頃の記憶にずっと残っていた鯉のいる池へ向かった。車通りの多い県道から車1.5台分の幅の小道に曲がり、マイケル・ジャクソンを聞くためと防寒のためにつけたヘッドホンを外してしばらく自転車を漕いだ。さっきまでの道路の音が消えて、自分が乗っている自転車のチェーンの音・後ろから追いかけてくる小さい軽トラのエンジン音・自分の息遣いや髪の音・そして水の音を聞いた。「あぁ...昔よく祖父母と妹と聞いた、これこれ!」と、足りない音は何もなくて、そしてきっとこれ以上増えることもないのだろうと確信し、じんわりと安心感と幸福感に包まれていった。

大きな音が重なっている街ほど衛生的に汚いし、人は厳しい顔か、疲れきった顔をしている。自然が生み出すものや、ごく普通に人の存在を感じられるくらいの音があるだけで十分だと、そう思ってしまう。ないものねだりだとは分かっているけれど、ただでさえ飽和状態の音の先に感じる人々や社会そのものの歪みや焦りをダイレクトに受け取り苦痛を感じ、生活を脅かされている人はもっと沢山いると思う。汚くて音の多い状態を「雑踏」という言葉で美化(?)する人がよくいるけれど、それはどうなのだろうか。そう表しておけば丸く収まると思って簡単に言うがそんなに単純なものではない。多くの音の向こう側にもっと複雑な社会がある。「音」が私に見せてくれる様々な姿を受け止めて切り捨てて生活する術を身につけたい。ヘッドホンを少しづつ外してリハビリをしている今日この頃である。不快指数が上がっても半日で果物が腐っても、音楽はいつも私を季節に前向きな気持ちで向き合わせてくれるから、イヤホンで外の音と一緒に取り込みたいと思う。イヤホン、時々ヘッドホン。みたいな。

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