傷つかない時代
『最近、90年代の映画を観ると楽しいんだよね。
感情やストーリーが鮮やかで。』という話を聞いた。
前々から同じことを感じていたので同意。
二人共、30代&40代の昭和生まれ世代だ。
90年代には1999年「マトリックス」など当時話題になり革新的だった映画が登場、恋愛映画では例えば1999年「ノッティングヒルの恋人」を観てみると、今からしたら信じられないほどの王道ラブストーリーが存在していて、全力の真っ直ぐさと構成内容に驚くことがある。
もう既出とされるストーリーが息づいていて少し古い街並みとファッションの中で、真正面からぶつかり合う恋愛や感情のやりとりが飾らずにそのまま出てくる90年代映画の魅力。そこに改めて魅力を感じるのは、年令を重ねたということでもあるんだろう。
特に好きな作品はハロルド・レイミス監督の1993年「恋はデジャ・ヴ(Groundhog Day ) 」
邦題どうにかならんのという突っ込みは生まれるものの、幸せとは何かという示唆がハッキリした温かみのあるストーリーで、折に触れて観返したくなる。1990年「ゴースト/ニューヨークの幻」も良い。このカットで場面転換するんだと驚く時もあるけど、主人公達のお互いを想いあう気持ちや幽霊としての行動もテンポよく面白い。
親愛なる90年代映画トークをしながら話は、
『最近の20代の子達と話していると、感情の動きがスマートというかさらっとしている感覚なんだなと感じることが増えた気する。』という話になり、話を聞いた相手が一言、『わかる、今は傷つかない時代だからね。』と呟いた。
傷つかない時代。ふと以前に出会った学生の子が「いわゆる大きな苦労とかそういうエピソードなしに育ってきたから、トラウマとかが無いのが逆にコンプレックス。」と話していたことを思い出しながら、うーん、何かわかるなと思った。
実際は「何かわかるな。」などと、おこがましい話だ。今まで出会ってきた印象的な数人に対し、小さなメガネを通して感じとった偏った感想でしかない。傷を感じることのない人生なんておそらくないだろう。
ただ、ネットや社会環境の変化の流れと共にコミュニケーションにおける体験や距離の質感が変わり、心の感じ方や傷の種類というのも変化してきているのかもしれないとも思う。心の闇にのまれる痛みもあれば、自身には共感しづらい未知の嘆きや傷が周囲に存在していることに痛みを感じている人もいる。
忙しさや社会変化の中で、傷を感じているんだけど向き合う機会がなかったり、確かに負担を感じているのに無かったことにせざるをえなかったり。傷の存在に気付いたり大切にはできるけれど、向き合いきれなかったり。興味のある無しもある。
90年代映画を観ていると内容にもよるけれど、全くコロナなど関係ないかのように見える世界を舞台に、ロマンチックすぎるくらいの恋愛ストーリーが繰り広げられていると、やけに生々しい人間味を感じてわたしはほっとするんだろう。
感じてもいい、感じなくてもいい。問答無用で感じざるをえないこともある。街中や満員電車で五感をフル解放していたら病みかねないし、幾らか鈍くしていることはそれはそれで自然な自己防衛作用だと思う。ただ大切な人とのコミュニケーションにおいて、傷つくべきときに傷ついていないふりをしたり、不感症状態になっていたくはない。
そうは言っても、いつでも正面から向き合い続けられるほど強くあれないときだってあっていいし、傷に向き合うためには、安全で信頼できる場が必要なことも少しずつ学んできた。
傷つかない時代。そんな時代ないよ、とも思う。
けれど、更新と展開が早い日々の中で、感じるべき痛みや怒りが凍結し麻痺していたのだなと、それらが溶け始めたときにようやく気づくときがある。そんなときにふと、この傷つかない時代という言葉と、感情やハートを真っ直ぐにやりとりしている映画の主人公達のことを思い出すのだ。
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