「条件の平等」と「承認」③

 能力主義が問題だとすれば、どんな解決策があるだろう? 人を雇うとき、仕事の力量ではなく、さまざまなコネや先入観を判断基準とすべきなのか? 時計を巻き戻し、アイビーリーグの大学が白人でプロテスタントの上流家庭出身という特権階級の息子たちを学業成績にかかわらず入学させた時代に戻ればいいのだろうか? いや、そうではない。能力の専制を打破するということは、能力を考慮せずに仕事や社会的役割を分配すべきだという意味ではない。
 そうではなく、成功についてわれわれが抱く概念を再考し、頂点にいる者は自力でそこに登り詰めたのだとする能力主義的うぬぼれに疑問を呈するという意味なのだ。

マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』p.226

 たぶん、能力主義(の専制)が問題になるのは、選抜の基準となる「能力」が極めて狭い範囲にしかないということにあるのだと思う。まずは「学力」、そしてこれを「人間力」とか「コミュ力」、非認知的スキルといったハイパー・メリトクラティックなところまで広げたところで狭いということには変わりない。これらの能力は(「人間力」をどうやって計測するのかという問題もあるが)グローバル経済の中でGDPを押し上げるのに役立つから、という理由で重宝され、選別の対象となる。一方で、社会を維持するのに必要であるにも関わらず、GDP拡大にはそれほど貢献しないような労働もある。たとえば、いわゆるエッセンシャル・ワーカーのそれだ。エッセンシャルワーカーもそれぞれ相応しい「能力」を持っているにも関わらず、グローバル経済への適応度という観点からなる能力主義(メリトクラシー)では、それを評価しようとしない。こうして、能力主義的エリートではない大半の労働者が自らの労働や人間としての尊厳を承認されず、絶望の淵に立たされることになる。
 リベラル派は、こうした「取り残された人々」に対し、教育による上昇機会を、ということを提唱するのだが、それは結局、「経済がもはや平均的労働者の味方でないなら、労働者のほうが経済に好かれるように変わる必要がある」というようなものである(保守派論客オーレン・キャスによるリベラル批判)。
 サンデルは労働の尊厳を認め、承認を与えよと提言するのだが、この辺りは「べき論」になっており、どれほどの賛同を得られるのか疑問を感じないでもない。が、政治的分断が進むアメリカでは現実的な議論として受け入れられているのかもしれない。また、メリトクラシー的ではない「能力」を現に有している人はいるのだから、その人の「能力」をメリトクラシーに適応的かどうかという偏見抜きに承認するというのは(「当然」という意味で)ありうべき議論とも思う。
 面白いと思うのは、このような場合、日本では「承認欲求を手放し、自己肯定感を高めるワークを」という方向に行きがちではないか、ということだ。つまり、辛いのは承認を求めてしまうからであって、それを手放す「能力」が求められている。自己肯定できるかどうかは個人のスキル次第であり、その意味では「自己肯定力」と言ってもいいのではないか。日本では絶望からの立ち直りさえ、自己責任化されているとも言える。
 サンデルは他者を承認しないことは道徳的に正当化できないという立場である。端的に言えば、承認しない方が悪いのである。個人的には、承認欲求を手放すこと、承認を求めること、これらの両面作戦を遂行していく必要があるのではないかと思われる。「承認欲求を手放す」とは「これこれの功績があれば(短歌的な文脈に直すと、何々賞を受賞したら)人から認められるはずだ」という幻想を手放すことだ。そんなメリトクラシーの枠組みに自らはまる必要はない。そうではなくて、日々、自分らしく実践している営みを大切にしていくのが良いと思う。そういう細々とした営みは埋もれてしまいやすいし、そういうことを見くびる人もいよう。
 しかし、そういう営みを承認しないのは、承認しない人の方が悪いのだから(少なくとも相当狭い世界しか見えていない人なのだから)、こちらとしては自分のことをやっていくだけでよいのだ。(了)
 

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