かなえたい夢
2024年が終わろうとしている。
寺子屋かめいを開校してから25年目の1年ー
節目の年は毎回、続けられるのか、続けるべきなのかを自分に問うような試練に見舞われる。
毎回、教え子たちや友人たちに救われて、再び情熱を取り戻す。その繰り返しだ。
20周年のときは
20年目は、英語の小学校での教科化や、大学受験で英語の外部試験導入の方針が打ち出された影響で、生徒が増え続けたけれど、英語を勉強する意義がますますわからなくなっていき・・・英語を教えることが虚しいとも感じる1年だった。
そして、20周年は、コロナ禍で迎えた。
25年目の今年は、もっと小さなことの積み重ねだけれど、今まで以上に、継続を危ぶむ事態になっていると感じている。
子どもたちが昔よりずっと自分本位になっていて、英語以前というより、勉強以前の問題に振り回されている。
自分たちの主張ばかりで、相手の意見を聞き入れない。
自分たちのしたいことは喜んでするけれど、
したくないことは頑としてしない生徒が増えている。
「自分がされていやなことは、相手にもしてはいけない。」
「自分の気持ちを尊重してほしいなら、相手の気持ちも大切にしなければならない」
人間関係がそんな土台の上にないというのか・・・。
「ご飯が食べられないといけないから、おやつを食べてはいけません!」「おやつを食べたからには、きちんとご飯を食べなさい。」
そういうことを言われずにきているというのかー
彼らの周囲の大人たちも、自分たち本位で相手への配慮が少なくなっていると感じる。
もちろん、彼らの周囲にいる大人たちは、親御さんばかりではない。
そんな大人に「英語が大切だ」と言われても子どもたちの心には届かないだろうな、とため息が出る。
英語は、外国語だ。
外国で使われている言葉だ。
言葉はコミュニケーションの道具だ。
外国語は、相互理解のために学ぶのものだ。
コミュニケーションは相互理解のために行われる。
自分本位を貫く人は、勉強しなくて良いのではないかとも思ってしまう。
その一方で、
私は、英語でも読み書きそろばんができる子が育つ塾を目指して、25年ほど前に「寺子屋かめい」を設立した。
そして、将来地元に帰って、地元のために働いてくれる若者が育ってほしいと願っていた。
25年経って、その目標はあまり達成できていないと感じることが多い。
日本の多くの子どもたちは、日本語ですら、読み書きそろばんができなくなっている。
地元に残ってくれる若者はいても、一度出て行って戻ってきてくれる若者は少ない。
日本の教育の目標にもなっているといわれている「国際競争力」
世界化は地域化とともにあるー
地域が疲弊したら、国は成り立たず、国際競争力などつかないー
私は、そう思っている。
英語を通して
他の科目の勉強を通して
足元から、一歩ずつ歩を進めていける子たちが育つ塾ー
そして、その足元を固めてくれた自分の育った故郷を大切にしてくれる人たちが集う塾でありたい。
そのために25年間、あれも、これもと続けてきた。
もともと寺子屋かめいは「英語塾」だけれど、英語を題材に「学ぶ姿勢」を整えることが大きな目標の塾だ。
それが彼らが飛び立つ足元を整え、それが、彼らがいつも戻ってくる場所になる。
そう信じて、25年も継続してきた。
まだ、できることがたくさんあるはずだ。
子どもたちに伝え続けること
自分たちの信念を貫くこと
を忘れずに、自分たちのかなえたい夢をまだもう少し追い求めたいと思っている。
まだまだ あれもこれもを続けるー
来年も子どもたちの居場所として、また人の集まる場所としての新しい塾の形を模索したいと思っている。