なにかが、おかしい ⑭
てらこや新聞に寄稿してくれているテレビ局で働く友人が、以前ニュースを子どもたちにもわかるように伝えることに苦心しているというような内容の話を書いていて、首を傾げた。
今回の「子どもたちの居場所プロジェクト」の案内書を書きながら、そんなことを思い出した。
そして、保護者の方々から「わかりにくい」と言われることに慣れて、もう開き直る姿勢をこの25年ほどで身に着けてしまっている自分の姿に苦笑した。
相手にわかるように心を尽くすことは大切なことー
でも、講座の説明は、子どもたち向けのものではなく大人への説明だ。書くべきことはしっかりと書く必要がある。
スタッフ何人かに読んでもらって、書くべきこと、表現の仕方、されるかもしれない質問などを考え、確認して最終稿ができるー
もちろん、それでも誤字脱字が見つかって凹むこともある。
人のすることだ
人へのお知らせだ
少しぐらいわかりにくい方が、反応をもらい、次にも生かせる
そんな開き直りとともに
わからなかったり、おかしかったら問い合わせを、と、相手にゆだねる。
それでも、開口一番
「わかりにくい」と、言われるとやっぱり凹む。
その一方で、そのあとの言葉で
ものを読んだり、聞いたりするときの子どもたちの様子を思い浮かべ
子どもは大人の鏡だと改めて思うことがある。
私は、文章を読むときも、書くときも
人の話を聞くときも
ん?
あぁ、
で?
ほぅ、
だから?
なるほど・・・というようなプロセスを自分の中で繰り返す。
その中で、内容を咀嚼する。その上で、疑問に対処する。
今、子どもたちにその姿勢が見られないことに不安になったり、憤ったり、呆れたりすることが多い。字面や、聞こえの印象と感情だけで受け止め、わかった気になっているのではないかと思う。
そして、大人にもそういう人が多いことに気が付く。
先日の都知事選で、一躍ときの人になった方と彼を支持されている方々の言葉を聞いていても、そんなことを思った。
子どもたちだけではなく、大人たちまで相手が自分たちに合わせてくれるのを当然とする社会ー
私は、そんな社会ではなく、お互いに努力をして理解しあう社会に住みたい。子どもたちには、自分たちで理解する方法を学んでほしい。
だから、これからも敢えて「わかりにくく」、不親切な親切と続けたいと思う。
そういえば、11月に「英語学習」についてnoteに書いたときふれたあの市長が、あの人のことだった。