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寺子屋の目指すもの ④
Learn from the mistakes of others. You can’t live long enough to make them all yourself.
他の人の失敗から学びなさい。あなたはそれら全ての失敗を自分でするほど長くは生きられないのだから。
自分が叱られる機会や
誰かが叱られるのを見る機会が減っていることは、
子どもたちにとって不幸なことなのではないかと、考えることがある。
失敗から学ぶことは多く
しっかり叱られて、失敗に気づき、
次へ生かす努力をすることが大切なはずなのに
その機会を与えられない子どもたちー
「叱られること」が少なすぎて・・・
「叱られることを見ること」も少なすぎて
叱られたり、声を荒げられたりすると、防衛本能からか
「叱られている」、「怒られている」という感覚が、鈍いというか、
耳を閉じてしまうというか・・・
私が、僕が、
「叱られている」という捉え方より、
お母さんが、パパが、先生が
「叱っている」
自分が
「怒られている」とか「怒らせている」いう捉え方ではなく、
相手が
「怒っている」と、考え、
他人事のように思っているのではないかと思えるほど、反応が薄かったり、同じことを何度も繰り返したりする。
これが自分の経験やほかの人の経験から学ぶ機会を奪われた結果かもしれないと思う。
その姿は、いつも自分以外のところに「悪者」を探すことで満足して、同じことを繰り返す大人の姿に似ている。
子どもたちが、勉強をせず、ゲームばかりしていると、塾にも報告してくださる親御さんたちがいるけれど
それは、子どもたちに優先順位を考える姿勢をきちんと教えてこなかった周囲の大人たちの影響ではないのだろうか。
それならば、胸に手をあてて、自分を省みる必要があるのに、ゲームばかりしている子どもたちが悪いと信じることに心の平安を求めようとしているのではないだろうか。
社会でも、何か事件や事故が起こると、一斉に悪者を探そうとする。子どもたちがいろいろな立場で巻き込まれた事件が起こると、親が悪いとか学校が悪いとか、悪者探しをするけれど
その巻き込まれた子どもたちが、自分の愛する存在である可能性を考え、正義を振りかざす人たちは、大概、彼らが被害者だけではなく、加害者で巻き込まれる可能性があることを想像していない。
加害者にならない保証などないのに。
明日は我が身だ。
誰が悪いのかを考えることは、当事者たちには必要なことだろうけれど、当事者でないのなら、自分たちの愛する存在が加害者にも被害者にもならないために、できることを考える必要があるのに、
「悪者」を探して安心しようとする姿が、子どもたちの防衛本能からくる反応と同じに見える。
少なくとも私は、答えがすぐには出なくても、今、自分のできることを全力で考えたいと思う。
だから、今、子どもたちには、私たちの目のあるうちに、目のある場所でたくさん失敗をして、叱られて成長してほしいと思う。
そして、彼らの前の自分は、自分の失敗も含めて、次へ生かす努力を続ける大人でありたい。
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