昇進したら適応障害になった話と「メンタルの弱さ」について
「メンタルが弱い」という言葉の意味
わたし自身は他人から「メンタルが弱い」とよく言われるし、自分自身でも屈強な精神を持てているとは絶対に言えないので、間違いではないと思う。
しかし、そもそも「メンタルが弱い」というのはどういう意味なのだろうか。
おそらく表面的な事象としては、落ち込みやすくて気分屋であり、それを隠しきれないし、結果として人への態度や仕事の質にむらがでる。同時に気分の落ち込みにより思考も圧迫されて視野が狭くなる部分もある。
その事象を深掘りせずにただ言語化すると「メンタルが弱い」という言葉になるのだろう。
確かにわたしは自分自身になにか起これば衝撃を受け、他者からの言動や環境の変化によって過剰な刺激を受け、それらを自身の中で処理をしきれずにダウンしてしまう。
それが「メンタルが弱い」と言われる状態だ。
そしてマウントをとるように言われる「日向さんはメンタル弱いからさあ」という言葉は、おそらく「キャパシティが狭い」「バイタリティがない」とわたしをあげつらうものだ。
打たれ弱く、非力で無力で不能だと、人間としての性能が低いというニュアンスをたぶんに含む「メンタルが弱い」。
そう考えると自分でも疑っていなかった「メンタルが弱い」と言葉でひとくくりにされる性質に疑問が湧いてくるのだ。
わたしは彼らがいうようにただ打たれ弱く、非力で無力で不能なだけだろうか?と。
適応障害になった話
タイトルにも記載した話をしようと思う。
昨年の夏、職場で昇進した。
いわゆる底辺職とも揶揄されるような業種でたいした会社ではないが、男性社会を煮詰めたような前時代的な職場で、女性であるわたしが昇進するにはそれなりに業務上の努力や立ち回りの工夫が必要であった、と自負している。
事業所内では最年少かつ、職歴も最も浅い、そして女性の管理者だ。正直にいえば驕りもあっただろう。
わたしが職場を変えるのだ、この自浄作用も期待できない腐ったスタッフたちの雰囲気を変えてやる。そのためにほかの管理者とも協力して尽力していくのだと意気込んでいた。
ただ実際に昇進して愕然とした。
なんて酷いありさまなんだと。ただのスタッフでは見えていなかった、管理者たちのありように心底失望した。
スタッフがだめだから職場がだめなのだと信じていたのだが、そもそも管理者が腐っているじゃないかと。
現状を変える気もない人、そもそも現状の問題を把握も理解もしていない人、そして彼らを見下している自信過剰な人。まともなやつがいない。地獄ではないか。なぜ彼らを昇格させたのだ。
そこでわたしを昇格させると発案をした現場の責任者に問い詰めると「いまあるものでなんとかするしかないから。」ときっぱり答えるのだった。
悲しいかな底辺職、つまりわたしもその「いまあるもの」にすぎないということである。
それでも諦めてはいけないと現状を変えたいと、そう思って他の管理者にいろいろと進言するも却下却下、お前のいうことなど所詮は理想論にすぎない、現実はこうなのだ、これまでそうしてきたようにこの先もそうし続けるのだ、そんな対応を受け続けた。
上司たちからは「変えろ」と言われるのに、同格の管理者は「変えたくない」らしい。
変えたくない理由はさまざまだ。
そもそも変えていく必要性が理解できないもの、変わっていくことに適応することも変えようとする行動も億劫なもの、そして現状の管理者たちの酷いありように甘んじることで相対的に自身の価値を高く見せようとするもの。
志しもクソもない、自分のことしか頭にない、最低最悪な管理者陣である。
(あらためて客観的に振り返れば、そこまででもない気もするが、理想に燃えていたわたしの目にはそのように映った。ただやはり総体的にみると当時の所感と根の部分は変わらない人間も多いなと思う。)
打ちのめされた。
なんのための管理者だ、と。
みんな理想を持って職場をよくしようと思っているのではないのかと落胆した。
自分の見たいものしか見ないやつばっかじゃねえかと。
いま思えば、同格の管理者に進言などする必要はなく、自分がやりたいことを上長に申告して許可を得たうえで好き勝手にすればよかったのだとわかるが、どうしても先輩諸君の存在を無視してひとりでやり遂げる自信がなかったのだ。
そこはわたしの未熟な点であっただろう。
そんな経緯を経て、自分のなかにある理想と現実とのギャップ、そして同格の管理者からのハラスメントともいえるような当たりの強い言動によりわたしは精神を病んだのだった。
眠れない、眠れても寝た気がしない、食べれない、食べても吐いてしまう、性的なことが一切受けつけなくなる。
生きるためとは正反対の方向へ身体が暴走していくので恐ろしかった。精神を病んだ、とはいうが、もはや精神ならびに感情の次元にある問題でなく、脳の機能そのものがバグっているようだった。人間という生き物は興味深いものだなとすこし思った。
あきらかにふつうじゃなかった。
ふつうじゃないと自覚があるうちにどうにかしなければと思った。
うっかり自分自身だけが死ぬだけならば問題はないが、事故を起こしたり、自身へ攻撃的な人間へ反逆するなど、他者へ加害してしまうことだけはふせがなければとメンタルクリニックへかかったところ適応障害の診断をうけ、休職するに至ったのだった。
それが半年と少し前の話だが、復職したいま、あらためて思うのだ。
わたしは「メンタルが弱い」からうつ状態に陥ったのだろうかと。
だって、理想を持って、現実を観察・分析して、行動さえ起こさなければ、病まなかったんじゃない?
なにも考えずに管理者の雑務を漫然とこなしていたら、そんな自分を優秀だと信じていたら、まわりの管理者たちとなあなあにつるんでいたら、それを良しとできるような人間ならば、あたまをからっぽにしたまま意気揚々と働けていたのではないか。
わたしはそんな人間であるくらいなら、死んだほうがマシだと思う。
「なにも考えてない」人間こそ「メンタルが強い」説
けっきょくなにも考えていない人間は良くも悪くも強いのだ。
先に述べた「メンタルが弱い」という言葉の意味についての疑問と繋がるが、わたしはただ打たれ弱く、非力で無力で不能だから「メンタルが弱い」わけではないのではないか、理想を抱いてしまったがゆえに重圧を感じ、現実とのギャップに苦しんでしまったという自己保身的な可能性が頭に浮かんでしまう。
なぜなら、たとえ打たれ弱く、非力で無力で不能だとしても、そもそも自他ともにある問題も把握しようとせず、問題があることすら疑わず、自分はできるのだと信じこんでいれば、精神を病むことなどないのだから。
何も考えない、考える能力がない、ことこそが社会ににおいて最も簡単に「メンタルが強く」いられる生存戦略ともいえるかもしれない。
そんなふうに考えてしまうわたしは、やはり驕っているのだろうか。