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高校中退して人生詰んでた機能不全家庭育ちが、大学進学を決め、希死念慮から逃れられるまでの話


20歳くらいまで制服を着ていた。
学校に友人もいなかったので、せめて記念に残しておこうとひとり自撮りした悲しい青春を物語る写真。

十年前のあの日、大袈裟でなくて、わたしは生きていていいのだと、世界から許されたような気持ちになった。 

自我のないわたし

物心ついたときから母親の言う「あなたの好きにしなさい。」は「私の望みを自分で読み取って、そのように行動しろ。」という意味だとわたしは知っていた。

そうして小学生の頃に「進学先はあなたの好きなようにすればいい。」と言われたわたしは、寝ることや遊ぶことを諦めようと一生懸命に努めながら、中学受験に向けて勉強した。
勉強ができないというわけではなかったが、要領は悪く、精神や身体は脆い。そんなわたしはおそらく寝不足とプレッシャーのせいだろうか何故か毎日鼻血が止まらなかった。毎晩ルーズリーフにぼたぼたと落ちる血が絵に描いたような血痕を残す。その様子を見ながら、人の身体って不思議だなあと他人事のように思っていたのを覚えている。
後にも先にも鼻血なんて出たのはあのときだけだ。

なんとか合格した中高一貫校は飛び抜けた秀才が揃うとまではいかないが「悪くはない」とされる程度に偏差値の高い学校で、そこへ通う学生たちも育ちがよさそうで進学校のわりにはおっとりした雰囲気が流れていた。そこでの出会いはいまでも大切なもので、努力した幼い日のわたしに感謝はしている。

ただ正直いうと10代までの記憶はおぼろげである。
つらい、くるしい、誰も助けてくれない、なんでわたしばかりこんな目に。断片的な苦しみと忘れられないトラウマから目を逸らすようにいつもへらへら笑っていたような記憶しか残っていない。
笑わなければ存在してはいけない気すらしていた。

どこにいても自分はここにいてはいけない、ような気がするのだ。わたしは無能な役立たずで、愛らしくなく、どこにも相応しくない無価値な人間で、存在してはいけないという強迫観念に襲われる。
必死に「ここにいてもいいか」と周りを伺うような言動は客観的に見ても惨めであわれで、なによりみっともなく、より人から疎まれそうだとも思うがそれ以外の振る舞い方がわたしにはわからず、ただそこに自然体で居られなかった。

わたしに優しい人たちを踏み躙るようだが、彼らの愛情や好意すら嘘のように思えて、彼らが人として出来ているからそう振る舞ってくれているに過ぎず、万人にそうであり、決してわたし相手だからではない、思いがってはならないのだとひとり勝手に釘を打していた。
素直に受け止めて喜べばいいのに、申し訳ないという気持ちが先に立ってしまう。

それでもあとから申し訳ないと思うほうが申し訳ないのかもという罪悪感と自己嫌悪が絡み合い、思考が停止する。そのままずっとほどけないままだった。


とにかく育ちが悪かったのだ。

精神病を患い、アルコールと恋愛に依存して自殺未遂を繰り返すバツ3の母。ずっと仲は良かったが次第にやさぐれて「家族」と口を聞かなくなってしまった弟。インターネットで出会った大人の家に住み着くなどして不登校と失踪を繰り返しては警察沙汰を起こす妹。そして引きこもりで心身の脆いわたし。
日本において110番と119番をした数でわたしに勝てる人間はそうそういないと断言できる。

なにより親が親として機能しないから、兄弟のため代わりにその機能をわたしは担うしかなかった。食事をつくり、部屋を整え、衣服を清潔に保つ。それすら母に「当てこすりか。」と責められる。そんなふうに家庭を維持しようとすれば責めるくせ、母が家族のためになにかを行なったときは大仰なまでに感謝を求められ、母の求める正解を出さないとまたヒステリックに暴れ出す。正直、親なら当然のことをしただけだ、と今は思う。
あるとき彼女の求める正解を出し続けることに疲れてしまい、そんなにお母さんが大変なら全部自分でやるからいいと伝えたときは「誰の家で誰の金で暮らしてるつもりなんだ。」と金切り声を発しながら手の届く範囲にあるありとあらゆるものを投げつけられた挙句に殴りかかられた。

そしてその手の出来事がめずらしくはない家庭だった。なんなら人に話せば空気が凍りそうで、わたしのことをまともに扱ってもらえないようになりそうでおそろしく、もはや墓場まで持っていかねばならぬ記憶が山のようにある。地獄である。家庭崩壊もいいところだ。

この手の家庭にしては金銭的な余裕があったのだけは救いだった。


そんななかでも21歳で高校を卒業するまでの人より長い高校時代はわたしの人生においての谷底だった。
必死に勉強して入った学校を病気で中退することになったのだ。人生のレールからおろされたような気がしたし、実際「金をかけたのに」「サポートしたのに」そんな身近な人間からの失望が痛いほど伝わってきた。

これからの人生をどうしたらいいのかわからなくなった。
わたしには自我がなかったからだ。まわりの人間の顔色を伺い、求められる姿を演じなければならず、そこにわたしの意思や思考や感情などは必要ない。ただ流されながら笑顔をつくればよかった。

でも、求められる姿にはなれなかった。
わたしはこの世にいらない人間になってしまった。

それでも底なしに求められる自己犠牲と助けのない孤独と先の見えない人生への不安でおかしくなりそうだった。
なによりいますぐわたしは消えていなくならなければならないのに、それができない、自分がこの世に存在していることにさえ罪に感じて、うまく息もできない、そんな日々。

再入学した高校の担任とも折り合いが悪かった。
ひとまず大学へいきたいと伝えるも
「大学なんて行かなくていいんじゃない?勉強だ
ってべつに好きじゃないでしょ?」
という自分の意思や性質と正反対の言葉を投げかけられたことでわたしは人に対して心をより頑なに閉ざした。
何もかも怖くて、学校へいかなくなり、丸二年ひとつの単位も取れず、最後に「こんな生徒ははじめてだ、早く辞めるべき。」と吐き捨てられたことは一生忘れられないだろう。

ただでさえ挫折して流れ着いた通信制の高校である。辞めたら中卒となると辞めるに辞められず、単位をひとつも修得できないまま三年目を迎えたが、それが転機だった。

三年次の担任教師と大学進学という選択肢

二年間同じだった担任教師が変わったのだ。
三年次の担任教師はぱっと見で好感を抱いたが、話をかわして確信した。見た目の印象通り、穏やかで可愛らしくて優しくて、知性を感じさせる人だったからだ。

最初の面談で
「あなたはこの先どうしたいと思う?」
と訊かれて
「わからないが、ひとまず高校を卒業して働こうとは思っている」
と答えたときの返事からしてまず驚いた。

彼はびっくりした顔をしてからさも当然の選択肢のように「大学にはいきたくないの?」という。
最初の担任と違うことを言う、なぜだろう、そう思考をぐるぐる巡らせながら
「わたしみたいな馬鹿は大学にいっても意味がないと思うから」
と答えると、悲しそうな顔をして即座に否定したのだった。

「あなたは賢い子でしょう。」

「そんなことはないです。いまさっき初めてお会いしたばかりじゃないですか。」

わたしという人間のなにを知っているのだと懐疑的になり突き放すような姿勢をとるわたしに

「話したらすぐわかる、あなたは賢いし、大学の勉強を楽しいと思えるような人だと僕は思いますよ。」
「不躾な言い方かもしれませんが、金銭的な余裕があるなら絶対に進学したほうがいいです。」

ときっぱりいうのだった。

基本的には物腰の柔らかい話し方をしていたので、その押しの強さは意外だったが、自分を認められているようで悪い気はしなかった。
いま思えば、あのときの自尊感情を持ってはならないのだと思い込んでいたはずのわたしが初対面にかかわらずここまで本心で話せていた時点で、彼のことを信用していたのだろう。

最低でも高卒して就職、以外の選択肢が頭から消えていたわたしは少し呆気にとられもしたが、そんなわたしに彼はいたずらっぽく笑いながら「僕は日本でいちばん楽ちんな大学進学の仕方を知っているんですよ。」
と、大学への付属校推薦というシステムを教えてくれた。

大学付属高校の生徒は模試の成績に応じて希望の学科への推薦がもらえる、医学や看護、あるいは美術系などの専門的な学科や人気のある学科は実技試験もパスしなければいけなかったり、成績で足切りされたりする場合もあるが、学科を選ばなければどこかしらには滑りこめる、あとは高校の校長との面接だけ。

実質、大学進学にあたって試験はないということだ。勉強から遠ざかっていたわたしにはなかなかに耳寄りな情報だったし、最終学歴が中卒という危機に陥っていたわたしにまだ大卒というカードが手に入る可能性があったのか、と視界が開けたような気がした。

「なにか興味のあることや好きなことはありますか?」という彼の質問から始まったお話や様々な学科の先生方が高校まできてしてくださった説明会を経て、日本文学科への進学の意思が固まった。

もともと幼い頃から本の虫だったことと、学科説明会でお会いした日本文学科の先生にとてつもない力で惹かれたからだ。
(のちに大学進学したあかつきに中古文学を専門とする彼女のゼミにはいった。彼女はわたしという人間をかたちづくった人といっても過言ではなく、彼女に出会わなかったらまったく違う人間に仕上がっていたと断言できる。視点も感性も思考も生徒に対するスタンスも、心底信用できる人だった。一方的な憧れで恥ずかしいが、ほんとうに大好きだった。)

そうして彼へ日本文学科に進学したいと申し出るも「中高の国語教員免許がとれる」ことで人気だから難しいかもと言いづらそうにやんわり制されたこともあったが、付属高校模試の成績が思いのほかよかったこともあり、これなら余裕ですよとお墨つきをいただけた。

確かにFランと揶揄されることもある大学の付属高校なので学生のレベルはピンキリだが、それなりの偏差値の高校もあるなかで中学をでて以来ほぼ勉強をしていない人間にしてはいい成績だったと思う。

受験したのが4,000人強ほどで国語と社会が100位台だったことと、英語が4,000位台だったことは鮮明に覚えている。(のちに大学で先生が「うちの学科は英語ができないからって国語しにきてる子が多いのよねえ」といっていたのをきいたときはまさしくわたしのことだと思った。)

高校の校長とふたりで話す面接もスーツまで着て緊張の心持ちで臨むも一言目から
「普通の子だね、なんでうちきたの?いじめ?クラスメイトと馴染めなかった?」
と軽やかな調子で訊かれたので面食らった。

ひとまず素直に「病気をしてしまって、前の高校を中退しました」と答えると「あー!そっち系ね」と雑談のような口調で返されたのでさすがに笑ってしまった。
教室に馴染めない、いじめ、病気、家庭の事情。いずれも通信制高校生あるあるで、めずらしいことではないのだろう。

自分の中での大事件をそんなふうに受けとってもらえたことは逆にわたしの気持ちを軽くした。

通信制高校にいる人々

三年次の担任教師に支えられながら、無事に第一志望であった日本文学科への付属校推薦を得たわたしは20歳になっていた。

19歳のときに大学進学を決めてから最短で高校を卒業できるよう、足りない単位を埋め合わせるため授業を詰め込んでいたわたしはいよいよ必死になった。
実質2年で高校卒業に必要な単位を修得しなければならなかったからだ。

ときには15歳16歳の子達と肩を並べながら教室で授業を受け、ときにはいかにもやんちゃしてますといった風貌でたばこのかおりがする子と化学の実験をし、ときには「アッ」「ハイ」の二語しか口を聞いてくれない子と討論をし、ときには中学生のお子さんがいる女性と英会話をした。

いろんな人間がいた。
わたしは学校で出会う人からよく「普通の子じゃん」と言われた。そして同じようにわたしが「普通の子じゃん」と思うような子も、わたしも、なにかしらの事情を抱えてそこにいたのだった。
人には人の地獄がある。
平気なふりして、その実はあらがいながら、必死に生きている人たちがたくさんいる。

そんなふうに気づけたのだから、いい経験をできているのだろう。レールから外れる人生も味わい深くて悪くないと前向きに捉えることができるようになった。

高校四年目になり、また担任が変わった。
落ち着きがなく少し無神経な、ガチャガチャした印象の人だった。あまり得意ではなかったが、三年目の担任であった彼とは歳が近いせいで親しいらしく、合間にちょこちょこと彼が身を乗り出してくれたおかげでなんとか上手く付き合えた。

助言や支えはしてくれるが基本は放任主義の彼とは違い、四年目の担任はやたら口を出してくる。
それが仕事だから仕方ないとは思いつつ、やや辟易していた。
たとえば大学進学にさいしての様々な手続きや課題など、やるべきことをやっているのかと捲し立てられる。正直ちょっとめんどくさい、そう思っているわたしを見透かしたのだろう。
すっと近寄ってきて彼は
「あの人はあなたの行動のせいで自分が責任を負うのが怖いのよ、だからあなたを信用せずにあれこれいう、要は人としての器が小さいんですよ、だからあなたは気にしなくていいんです。聞き流しておけばいい。」
といたずらっぽく笑うのだった。

別に四年次の担任も悪くはないことはわかっているだろうから、単純にわたしの心のうちを読んでフォローしてくれたのだろう。
やはり聡くて、優しい人だと思った。

あるとき、彼の放任主義が祟ってわたしはひとつ単位を落としてしまった。というのは彼の見解だ。
わたしがうっかり勘違いしてしまったせいである科目の出席日数が足らなかったのだ。完全にわたしに非がある事案で、わたしを信頼していたからこそ口を出さなかった彼はなにも悪くない。
それでも彼は謝罪の言葉を重ね、後日お詫びにもならないかもしれないがと可愛らしいリラックマの缶に入ったクッキーをくれた。それを選ぶ彼の姿を想像すると、こころがやわらかくあたたかくほぐれた。

卒業と進学

紆余曲折ありながらも21歳のわたしは大学に進学する権利と高校修了できる単位を得た。

長かった。同い年の子たちが院試や就職の話をしているなかで、わたしはやっと高校卒業だ。

地に足ついていない、ものを考えていない、甘やかされて育ってきた。なにも知らない人間から好きなように言われもしたが、わたしはいつでも頑張っていた。そう言い切れる。

勝手に産み落とされたと思えば、与えられるべきものを与えられず、人に与え続け、歪み切った盤面で戦うことを強いられた。それでも死ぬに死ねず、もがき苦しみながらもここまできたのだ。
恵まれた環境を棚に上げて、さも自分の努力で得た場所だというツラをしてのうのうと生きているお前らと違う。
じゅうぶんに頑張っているじゃないか。

自信を持ってそう思えるようになれた。
もしかしたらわたしが存在していけない理由などないのかもしれないなと少しは胸を張って歩けるようになった。
大学へいくのも楽しみでしかたなかった。
あのとき少しお話ししただけで心を惹きつけられた人とまたお会いできる。好きな分野を四年間も突き詰めて学べる。

いっときは最終学歴が中卒になりかけた引きこもりの人間が大学生になる。
彼に出会ったことでわたしの人生は好転したのだ。彼に出会わなければ未来を八方塞がりだと盲信して自殺でもしていたかもしれない。命の恩人である。

卒業式の日はスーツを着た。
制服の子もいたが、スーツの子も多かった。

最初に高校へ入学した年から卒業まで六年かかった。一般的な高校生の倍の年月をかけての卒業である。別れを惜しむ友だちなんていないのにたくさん泣いた。

とにかく嬉しかったのだ、人生を諦めなくてよかった、なにより手を差し伸べてくれる人に出会えてよかった。レールから外れはしたが、わたしの人生はまだ終わっていなかったのだ。
それに気づけてよかった、気づかせてもらえた、彼には感謝してもしきれない。

彼とはもう二度会うことはないのだろうなと思うととても寂しかった。でも最後に少し話せた。

「一生忘れずに感謝をし続けます、あなたに出会えてよかったです、大学はぜったい四年で卒業します、こころからありがとうございます。」

あまりお時間をとらせたらまずいと思い、それだけでもと簡潔に感謝を伝えて立ち去った。

すると卒業式の会場があった建物を出ようとしたところで呼び止められた。
走ってきたらしく軽く息の上がった彼の姿に驚いたが、それ以上に思いもよらないことをわたしに言ったのだった。

「こちらこそ、ずっとお礼を言いたかった。自分は通信制という特殊なクラスの担任を持ったのはあなたたちが初めてで、不慣れで緊張もしていた。実際にあなたには迷惑をかけたこともあった。」

「それでもいつもあなたはにこにこしながら話を聞いてくれたから、気が楽になったというか。これは少し大袈裟な言い方かもしれないけどね、自分はあなたに救われたんですよ。」

「自分の存在が他人にそう思わせることができる、ということを、あなたには知っていて欲しいんです。」

言葉では言い尽くしきれないほどのお礼を伝えたいと思っていた相手に、そんなふうに感謝されるなんて思ってもみなかった。
そして、それをわたしには伝えなくてはならないというところまで見透かされていたのか。追いかけてまで。わたしは誤魔化せているつもりだったのに。
へらへらしていて悩みがなさそうな馬鹿、そんなふうに振る舞うのは得意だったのに。

なにより、あなたが、わたしがにこにこしているように感じたのなら、それはあなたがとてもいい人だから、よくしてくれたから、好ましく思えていたからで、わたしは自然と笑顔になっていただけで、あなたのおかげなのだ。
わたしはただわたしでいただけだった。

気を抜くと座り込んで嗚咽してしまいそうだった。

どうにか失礼にならない程度に別れの挨拶をして、ひとりで駅までの近道である東大のキャンパスをうつむきながら早足で突っ切った。目まぐるしく景色を変える足元をみつめながら、忘れたくないと、頭に刻みつけようと、彼の言葉を反芻するたびに涙が溢れて止まらなかった。

ただそこにいただけのわたしの存在が人の役に立つのかと、こんなにもわたしを理解して寄り添ってくれる人間もいるのかと、世界がいっぺんして見えた。

この日、大袈裟でなくて、生まれてはじめて、わたしは生きていていいのだと、世界から許されたような気持ちになったのだった。 


10年前の2014年春、あなたに出会えたことでわたしのお先真っ暗だった人生は変わりました。
お別れした2016年春、あなたの言葉で生きる意義を見出すことができました。

そして進学した学科でわたしがもっとも尊敬する人物である研究室の先生にも出会えました。

恩師、東海大学付属望星高等学校ならびに東海大学日本文学科に、心からの感謝を。


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