家族全員が揃った2022年の元旦、そして私が選んだ家族のカタチ
2025年がスタートした。
3年前の母と祖母と家族
私には3歳から94歳までの家族がいる。2022年のお正月は、アルツハイマー型認知症が進行し始めた母は老健(介護老人保健施設)にロングステイしており、祖母は春にケアハウスに入居予定だった。
2025年1月2日現在、祖母はケアハウスに入居しており、母はグループホームに入居している。祖母は昨日、我が家で過ごし、明日、母がやってくる。家族全員がそろった2022年の元旦。あれから3年目のお正月になるが、まだみんな一緒は叶わずにいる。
新年初noteには、2022年のお正月に書いたエッセイ「初雪の決意」をお届けしたい。
2022.01.06 エッセイ「初雪の決意」
初雪
昨日は寒の入りで、今日は午後から雪が降ってきた。初雪だ。今シーズンは日本海側で豪雪が多いが、今日は関東南部も雪が積もった。正午に都内勤務の妹から電話があり「雪が降って寒い」と話していた。また、神奈川にいる彼のところも雪が降っているとラインがあった。3番目の姪は今日、生後4ケ月を迎えた。先週ようやくクリニック受診も卒業となり、体重は7キロを超え、さまざまな発達が著しい。
明日は松の内で、正月飾りの片付けが待っている。七草粥も、昔は母が七草をとって作ってくれていたが、昨今は簡素。そもそも粥が嫌いな祖母は昔からその類のものは一切口にしたことがないので、今年は私一人でオリジナル粥を口にすることになる。
年末にフル回転
この年末年始は家族が無事新年を迎えるために、人生で一番頭と身体を動かした。母と離れての暮らし、末の妹のサポート、祖母への気配りなどをしながら、正月事始めである12月13日前から手を付けた。一人で全部は到底及ばないので、大掃除は仏神の掃除を優先した。祖母にはデイサービスやショートステイ利用をお願いして、自分のペースでやれるように進めていった。父が他界後は徐々に私が回すようになってきていたので、なんとか整えることができた。この春にケアハウス入居に向けて話を進めている祖母には「もう若い者に任せても大丈夫」という姿を見せたい思いも強かった。義弟は庭の松の芽摘みを丁寧にやってくれていたし、姪も窓拭きや勉強部屋の片づけを頑張っていた。また、妹は休みの日を使って計画的に大掃除を進めていた。祖母は何かにつけひと言放ってはいたが、みんなが色々と動く姿を見聞し、以前のように何としても我を通そうとはしなくなった。
母のいない年末に母を想う
先月の21日は母の75歳の誕生日だった。3日前の土曜日に施設を外出させ、家族でお祝いの会を開くことができた。母の笑顔が何よりも嬉しかった。後期高齢者となった母は「後のことは心配ない」と外出の帰りに車の中で話していた。大掃除に母がおらず、寂しさもあった。また、お正月に食べる煮物をはじめとするおせち料理や雑煮の汁など、去年まで母が作ってくれていたものも今年は一人で作った。母から調味料の配分等を教わっていなかったため、どうなることかと心配もあった。しかし、舌は味を覚えているのか、母の味に近づくにしたがい言葉にならない思いが込み上げた。
大晦日「のし餅切り事件」
長年我が家の大きな行事になっていた年末の餅つきは、去年からお供え用の餅とのし餅を買ったり、いただいたりして間に合わせている。今回も義弟が仕事でお世話になっている父の従兄の家で妹親子が餅つきの手伝いに行き調達してくれた。一昨年も妹親子は手伝いに行ったが、姪二人は臼と杵を使って餅つき体験をしている。義弟は若手で力があるため、餅つきの主要人物になっているらしく、妹も今回はかなり身体を酷使して手伝ったようだった。この餅つきが行われた30日に、私は正月飾りや煮物類作りにひとりでせっせと取り組んだ。また、お供え用の餅をお店に取りに行った。妹親子が持ち帰ったのし餅は祖母が大晦日に切ってくれることで話はまとまった。
事件が起きたのは大晦日の午前中。私がスーパーで元旦に食べる鮮魚類や天ぷらを買って帰宅すると、形相を変えた妹が一気呵成に言葉を発してきた。祖母がのし餅切りの際に、お餅に新聞紙をつけたり、段ボール紙をつけたりしたあと、それを洗い落としていたらしい。のし餅の下に新聞や段ボール紙を敷いて切ろうとしたのだろうか。妹は必死に止めに入り憔悴していた。
よく考えてみれば、餅切はここ数年母の役割で、祖母はやっていなかった。また、物忘れや判断力低下から、もう昔のように正確にしかも速く切れる状態ではなかったのだ。すっかり私たちもそのことを忘れていた。習慣化している朝の掃き掃除はできても、イレギュラーにやることになった餅切はもうできない。妹は丹精込めた上に身体も酷使して作ったのし餅だけあって、祖母にきつく怒ったらしい。妹のきつく怒るは相当怖いだろうから、祖母も余程怖かったのか、妹曰く小さくなっていたそうだ。のし餅切は元旦に義弟と私がやることとなった。
大晦日
大晦日の午前中に私は一人でお寺にお焚き上げに行き、墓掃除をした。午後は施設に母を迎えに行った。大晦日に食べるお蕎麦と汁は母の弟である叔父の手作りを毎年頂戴しているため、支度が省けて助かる上に美味しいので有難い。だからといって、余裕があるかと言えば大晦日は忙しかった。帰宅した母にキッチンの椅子に座って休むように言ったが、なますや雑煮の汁作りに勤しんでいる私や鶏の唐揚げを大量に作っている義弟を目にし、落ち着かず、薄着で外に出て行ってしまったり、単純な料理の手伝いを頼むと、目を離した隙に混乱してしまっていたり、できなくなった事実に落ち込む姿は胸が痛かった。家に居ると「動かなきゃ」という意識が働く母。私と妹との声がけもあり、以前のように情緒不安定になることはなく、家族七人で大晦日の宴を過ごした。
母との年越し
母の年末年始の外泊に当たっては、三姉妹での話し合いの際、母と祖母だけにしないために環境を整える方法を考えた。私が基本母に付き添い、一緒に夜を過ごすことで話は決まっていた。そのため、上の姪と全ての部屋の晦日祓い(みそかっぱらい)をした後は私の寝起きしている別宅に母を連れて来た。因みに晦日祓いの役目は私が祖父から引継ぎ、最近は上の姪と一緒に行っていたが、昨年末はすっかり忘れていた。夕食後元旦用に使うワサビを彼女と買いに行くと「のりちゃん、今日もみそかっぱらいやるんでしょ? 」と言われ、はっとした。後光がさしているようにすらみえた姪。なんか不思議な子だ。
母と年を越すことになった私は、別宅で母にお茶とチョコレートでおもてなしをした。話を聴いて欲しくて仕方ないようで、施設での日常を色々と話してきた。慣れてきていることがよく分かったし、久しぶりの帰宅で興奮もしていたように感じた。施設では4日まで入浴出来ないと書いてあったので、私の方でお風呂に入れたのだが、これは大失敗だった。そもそも母はお風呂に入るのに乗り気ではなかった。しかも、母家と私の方のお風呂は勝手が違うし、脱衣場もお風呂場も寒かった。脱衣する時点から混乱が始まり、お風呂場でも介助が必要になった。母は寒いやら訳が分からないやらで悲鳴をあげ、私はまるで虐待しているような気持になった。湯船に浸かって落ち着いたのも束の間、今度は何を着るかがわからず混乱。わざわざ入る必要はなかったんだ、とまたもや余計なお節介を焼いてしまい母に申し訳なかった。
母が寝静まった後にお風呂に入って、お風呂場から出ると、全部電気が消えていた。状況把握が正確にできなくなった母は、誰もいない部屋に電気がついていたから単純に消したのだろう。しかし、お風呂場のドアを開けた途端、暗闇が広がる世界はもはやホラーの世界で思わず声をあげてしまった。私の叫び声を聞いて、母は混乱したであろうが、なんとか納まった。
難病で睡眠障害もあり、睡眠導入剤を常用している私の場合、睡眠環境はかなり生活する上で重要で、一番神経質になる部分だ。そういう意味で、かなり覚悟をして臨んだ外泊であったが、一晩がやはり限界だったと痛感した。ただ、それでもお互いに情緒不安定になって取り乱すことがなかったのは救いだった。そして、数時間は同じ部屋で一緒に眠れて新年を迎えられたのもよかった。
元旦
元旦の朝、先ず、お年玉を用意した。そして母家に行き、お神酒に榊、大根に刺した幣束(へいそく)と鏡餅を各所に供え、おせちの準備をした。義弟が刺身を切ってくれた。予定通り午前8時半過ぎに家族そろって新年の挨拶をし、料理を口にした。午前10時半近くに末の妹親子も年始にやって来て、総勢10名が集まり賑やかな元旦となった。妹親子が来るや否や赤ちゃんの姪に誰もがメロメロで場が和んだ。0歳~91歳の老若男女の家族全員がそろうのは一年で元旦だけかもしれない。写真好きの末の妹の掛け声で集合写真を撮り、いい記録が残った。
妹親子が帰宅後に母とお墓参りに行き、午後3時に間に合うように施設に送っていった。母は家を離れる時間が近づくにつれ、落ち着かなくなっていたが、取り乱すことなく帰路についた。この外泊で何よりもよかったのは、以前のように情緒不安定にならずに過ごせたことだ。施設での暮らしが母に心の安定を与えていることがよく分かった。祖母に限らず人的環境による障害は大きかったのだろう。送り届けるだけだと思っていたのだが、相談員の方に声をかけられ、母のケアプラン等の説明や母の施設や家での状態、今後のことなどについて話しをした。祖母と母との確執も把握されている相談員さんは祖母がケアハウス入居後に母を在宅で介護することをやんわり勧める節があったが、グループホームを検討したい旨を伝えた。年末から奔走していたため、疲労困憊で帰宅すると帰りが遅かった私に少しご立腹の様子の妹。どうやら買い物に親子で出掛けようとしていたらしい。事情を話し、母と祖母の今後について私の思いも伝えた。
1月2日の「草むしり事件」
翌2日は、例年通り姪が書初めをしていた。私は、年末に虫歯が見つかり抜歯が必要となったため、時間があるうちに、と確定申告の準備や介護関連の整理等を午後からは別宅で集中して行っていた。祖母は大晦日から3日までデイサービスが休みだった。
事件が起きたのは空が薄暗くなった夕飯前。夕飯の支度をしようと母家に向かう際、先ず、妹の車がなかった。そして母家は真暗。祖母がどこにもいない。シルバーカーがあるのと杖がないのを確認し、すぐに裏へ。大声を出しても耳が遠い祖母に届くはずはないのだが、探し回っていると、義弟が切った山積みになった枝木の下に生えている草を取っていた。またもやホラー並みの光景に声をあげてしまった。「おばあちゃん、こんなに寒くて暗い中で何やってるの? もう夕飯だよ」と私。「どこ見ても草だらけだから取ってるんだ」と怒り気味の祖母。精神科医にはスイッチが入ったら止まらないから、嵐が過ぎるのを待つしかない、と言われていた。しかし、外は寒く暗い。しかも周りは障害物だらけ。「風邪引いて体調崩しても、転んで怪我をしても面倒見られないし、デイサービスにも行けなくなっちゃうよ」と言う私に「だって草が気になってしょうがなんだよ」と子どもが母親にだだをこねるように答えた祖母。妹が見た祖母同様小さくなっていた。この寒い冬も草取りをしている祖母を目の当たりにし、草が見えない環境に連れていかないとエスカレートする現実を改めて痛感。
五臓六腑に染み渡った一緒の難しさ
母も祖母もこの家で一緒に暮らすことが難しいという現実が五臓六腑に染みわたった年末年始でもあった。母と祖母とかかわる人間が私でなかったら違ったのかもしれない。母と私の関係。祖母と私の関係。母と祖母と私の複雑な三角関係。上の姪曰く「のりちゃんのとりっこ」という構図。広い敷地にある我が家の環境。私だからもう一緒は無理なのだろう。私という人間だからできることとできないことがあって、祖母や母ができないことがあるように、私にもできないことがあり、それをもう認めないといけないのだ。私でない相手となら、または、環境が変わればできることが変わるのかもしれない。私も母と祖母と離れることで、できることが変わってくるだろう。長期間読まずに山積みになっていた新聞を片付けていて、先日目に留まった言葉。
「仕方ないじゃん・・・ 『困った人』っていうのは 困っている人なんだよ」
「困った人」はなにより先に本人が困っているという事実。母も祖母も私には「困った人」と思えることが多くなった近年。しかし、何より先に彼女らが困っていたのは確かだ。母は自分の認知能力が衰えていることに困っていたし、祖母は草のことが四六時中頭から離れず困っているはずだ。母と祖母が一番困っていることから楽にできる方法を探るのが私の役割でもあるのだ。現状では、妹二人は子育てや仕事に重きを置いて今を生きている。ならば、私ができる範囲で祖母と母のために動き、また、自分のために生きる時間を作る必要があるのではないか。
母も祖母も私も違う人間である限り、各々何を基準に生きるかは異なる。大切に思う事だって違う。我が家は3人だけでなく、そこに都内勤務の妹や中国人の義弟、8歳と11歳の姪も加わり一緒に暮らしているのだから、その振り幅は広い。家族の形は変化してもいいし、変化しない方がおかしいのかもしれない。
「共存」や「共生」というのが家族の単位で使われる際、一緒に暮らすことを意味しているように解釈していた部分が大きかった。しかし、物理的に一緒に暮らさずとも他者と一緒に生きている感覚はずっとある。数年前までは母と祖母を在宅で介護することが最善と考えていた。しかし、ここ2年はかえってそのことに縛られて苦しんできた。家族との日常の中で人生が豊かになるという経験をしてきたのも確か。でもそれ以上に味わい深い日々でもある。様々な味を知った。甘さ、旨さ、辛さ、渋さ、苦さ、酸っぱさ…。実際に味わってみないと、何が自分にとって栄養になるかも、消化不良をおこすのかも分からない。また、大袈裟に言えば、五臓六腑に染みわたったものだけが自分をつくっていくのかもしれない。学んだり、経験したりしたものではなく、五臓六腑に染みわたった経験をどれほどしたかで、その人の人間性というのはある意味決められていくのではないだろうか。
雪降って決意固まる
母と祖母のこれからを当人でない私が決める上で、相当辛く、苦しく、しんどい体験を味わった。私の場合、それらを味あわないと動けなかった。でも私じゃなかったら、できなかった、という思いもある。SLEの精神症状出して躁状態で手に負えなくなった私は自分の意思とは無関係に、精神科に2度入院させられた。末の妹が祖母のことで悩んでいる時「のりちゃんもそうだったんだよ」といった言葉が忘れられない。家族ではできないことを、できるところにお願いする。結果、私は今こうして元気に過ごせている。それは、母や祖母も同じなのではないだろうか。
母のことも祖母のことも具体的に動くのはこれからだ。しかし、年末年始に自分なりに心の整理ができた。私にとって雪は人生を左右する時に降ることが多い。初雪に大騒ぎしていた二人の姪。雨降って地固まるならぬ、雪降って決意固まるといえる境地。様々なことがいい方向に進む年になるといい。彼からは「雪が少し積もってうれしい」というラインが夜に届いた。
(おわり)
あれから3年
あれから3年の歳を経て、いろいろなことが変わった。
あの時、離れて暮らすことを決意した自分を責めずにいられる今がある。
家族全員が今はそろわなくても、それでいい。
明日は母が来る。
先月78歳になった母は、父より長く生きてくれている。