テニス上達メモ090.スポーツの上達は「花のカンピューター作戦」でいこう!
▶フォーム、フォーム、フォーム
「正しいフォームを身につけたら、テニスが上手くなる」。
いえテニスばかりではなく、ゴルフも野球も卓球陸上競技も、ありとあらゆるスポーツにおいて、ほとんどの人がそう信じています。
フォーム、フォーム、フォーム。
世の中の99%以上かもしれません。
ですから、元読売ジャイアンツの元木大介自身が「こういう指導」をするし、それを見た視聴者も「納得」するから「錯覚」します。
▶ちなみに「呼び捨て」する理由
ちなみになぜ、「元木」と呼び捨てか?
大阪府豊中市では、私たち地元同世代間の野球少年にとってスーパースターだったから、畏敬の念を込めてあえてそうします。
いえ、たまに面識のある年配者や、そのときの雰囲気に合わせて敬称を付す場合もありますけれども、基本的には呼び捨てにして外国人選手も「フェデラーさん」「ジョコビッチ選手」「ナダル氏」、あるいは「錦織プロ」などと文章が冗長になる表記にはせず、読みやすさにプライオリティを置いています。
▶「天動説」を信じる99パーセント側の人たち
閑話休題。
「正しいフォームを身につければ上手くなる」。
そう考えているのだとしたら、それは天動説を信じる世の中の99パーセント側です。
そもそも「正しいフォームというのはない」というのは、いつもご説明しています。
ですから正しくない悪いフォームもありません。
「では逆立ちしながら打ってもそれは間違いではないのか?」という反論が成り立たない理由は昨日ご説明しました。
後ろを向いて打ったりするのも、プレーヤーにとってのやむを得ない「事情」があったのでしたね。
▶すでにフォームは完璧
私たちはすでに、自分に合った完璧なフォームを実装していて、素振りでなめらかに、しなやかに振れるのであれば、一切問題なし。
その上でフォームを矯正しようとすると、最も自然に振れているスイングに局所的な変更を加えるため、全身の連動、バランス、調和を損なうのです。
もちろんすでに完璧といっても、これからもフォームは洗練され続けます。
それは今のフォームのまま、ボールに対する集中力が上がってさらに淀みなく動けるようになり、打球タイミングが合い始めると 、そのエレガントなさまを第三者が見て「フォームがきれい」と言うのです。
▶トッププロに共通しているのは動きの「しなやかさ」
「形」のシンメトリーなどではありません。
ロジャー・フェデラーもラファエル・ナダルもノバク・ジョコビッチも錦織圭も、「形」はみんな違います。
「動き」のなめらかさ、しなやかさ、淀みなさです。
これはフェデラーもナダルもジョコビッチも錦織も、みんな共通しています。
「形」と「動き」ですから、目指す取り組みは対照的とさえ言えます。
▶「気持ち」を大事にする
「フォームを矯正してもテニスが上手くならないなら、何を教わればいいというの?」などといぶかるその気持ち。
真っ直ぐ素直な「気持ち」が大切です。
そこが、自分が変わる「出発点」です。
自分の気持ちを押し殺して、「偽りの自分」を演じるのが、自他に対するディスリスペクト。
自己肯定感を損ねるのでしたね。
▶「上げ底」する人たち
「そうは言ってもせっかくフォームを教えてくれるのだから、従うべきでは?」
いえ、自分の気持ちを偽る必要はありません。
そんなふうによかれと思って、いわゆる「いい人」を装い、自分を底上げして見せようとしてしまいがちではないでしょうか。
それは一見すると、上手くいっているように映ります。
何しろ「いい人」ですからね。
人間関係もトラブルがなく円滑そうだけど、そこに「闇」がある話は後述します。
▶「ノー」と言わないのではなく「言えない」
自分でもいい人を装って上げ底しようなどと、意図してたくらむわけではありません。
自己肯定感(自己肯定イメージ)が低いとどうしても、そう振る舞わざるを得なくなるのです。
「ノー」と、言わないのではありません。
「イメージがすべて」といったのは、アンドレ・アガシでした。
イメージにはあらがえないのです。
ノーと、「言えない」のです。
気持ちを押し殺すのは自己否定的だから、ますます、自己肯定感を損ないます。
▶なぜ完璧にこだわり、なぜ不安になり、なぜ親しくなれないのか?
上手くいっているように見えている上げ底は、「ありのまま」の自分ではありません。
本心は騙せません。
つまり、ありのままの自分では受け入れてもらえないと思う本心が疼くため、完璧を求めて頑張りすぎたり、素の自分がバレるとあなどられそうな思いから不安になったり、腹を割って話せないため人と親しくなれなかったりと、内実は「上手くいっていない」のです。
▶自己肯定感は低い人は人間関係が良好なの?
ですからいわゆる「いい人」の人間関係も、円滑そうに見えるのは上辺です。
一見すると、人間関係に何の問題も抱えていない印象。
だけどその内実は、人間関係でトラブルにならないように、自分が我慢して、自分の気持ちを押し殺してきたから、上辺はこじれていないのです。
▶「闇」と「病み」
それは「闇」だと先述しました。
我慢して気持ちを押し殺す自己否定感が、心の「病み」に発展しかねません。
自分は、いる(存在する)だけでは価値がないという感じ方になり、人に(そうしたくなくても)話しかけるなどして気遣うのだけれど、それが「そっとしておいてほしい」相手にとっては「うざい」と感じられたりして、裏では嫌われる原因になったりもします。
沈黙してるだけでは自分には価値がなくて(沈黙が苦手)、「何も話題を提供しないと相手に失礼だ」などと思う決めつけが、相手の寛容度を低く見積もるディスリスペクトにもなっています。
▶慢性不満を家族にぶつける「内弁慶」
職場では自分を押し殺すから、何とか円滑な人間関係を装うことができる反面、反動で、うちに帰ると荒々しくなる「内弁慶」になったりしがちです。
しかし家族も「他人」。
内弁慶は家族に対する居直りですから、配偶者や子どもに向かう言動は否定的になりやすいでしょう。
▶「家族だから」は領域侵犯
自分の意見が通らないとイライラしたりする「慢性不満」も、自己肯定感の低い人によく見受けられます。
家族だからある程度までは受け入れてもらえても、ディスリスペクトを続けているうちに、取り返しがつかない事態にも発展しかねない。
それは「家族だから」と思う容赦ない踏み込み方が、他人の心に対する「領域侵犯(他者否定)」になっています。
▶人は変えられないけど、こうすれば「変わる」
人は、自分も他人も変えようとしても変わりません。
変わるとすれば、ありのままの自己を受け入れ、同時に、無条件で他者をリスペクトしていると、変えようとしなくても、「変わる」ときが来る。
取り返しがつかないような場合であっても、「ありのまま」を受け入れ続ければ、人は変えることはできなくても、「変わる」という原則は不変です。
▶自分の意見を否定されるとイライラするのはなぜ?
自己肯定感が低い人は、禁止令を含め自分の意見を否定されて育ってきたきらいがあるから、数少ない肯定された考え方こそ「絶対正しい」と決めつけるため、他者のさまざまある意見を、広く受け入れることができません。
ですから、他者が自分と違う意見を言ったりするとイライラするし、他者に自分の意見を否定されると、機嫌を損ねたりします。
「自分」ではなく、さまざまあって然るべき「意見」が否定されただけ、という感じ方は、自己肯定感が高いと受け入れられるのですけれども、自己肯定感が低いと、そうはなりにくいのです。
▶人生が上手くいかなくなる「最たる原因」
とはいえ私の見る限り、そういう人は少なくないように感じています。
日本では「しつけ」と称して、大人の(よかれと思う)否定的な厳しさが、自己肯定感をくじいてきた文化があるのです。
「こうあるべきだ!」が正義であり、ダイバーシティ(多様性)を認めない。
自己肯定感が低いというと、控えめで謙遜する穏やかなイメージを持つ人もなかにはいますが、その内実は見てきたとおりイライラ、不機嫌の「慢性不満」を抱えていて、それはテニスと同じ「現実に対するイメージのズレ」であって、人生が上手くいかなくなる「最たる原因」なのです。
▶「人に迷惑をかけない」は最大級の裏目
禁止令で最も強烈なのは、「人に迷惑をかけるな!」でしょうね。
こういうと、「人に迷惑をかけないなんて当然でしょ」
「人に迷惑をかけないのはいいことだ」と、なんの疑いもなく即座に反応します。
しかし「何を迷惑と感じるか」は人それぞれ、あるいは、時と場合によります。
挨拶しないのは失礼だと感じる人もいれば、話しかけられるのが迷惑だという場合もあるでしょう
主観で勝手に判断するのが「自分勝手」の本質です。
▶人に迷惑をかけないためには「人目」が必要不可欠
人に迷惑をかけないためには、どうしても「人目」を気にする必要があります。
ところがこちらで述べているとおり、「人にどう思われるだろうか?」は、私たちにとって不安を煽り緊張を強いる最大級の要因です。
人目を気にするそのせいで、プレーが萎縮し、がんじがらめになるのは恐らく多くのプレーヤーが経験済みでしょう。
ゆえに「人に迷惑をかけるな!」の禁止令は、(他人は何も気にしていないのに)自ら不安に陥り、過緊張を招く最大級の自滅と言えます。
▶「自然上達」する学習能力を取り戻す
閑話休題。
「フォームを矯正してもテニスが上手くならないなら、何を教わればいいというのか?」などといぶかるその気持ち。
「気持ち」が大切なのでしたね。
そこが、自分が変わる「出発点」。
従来の常識的なテニス指導は、「見た目」に目を奪われてきました。
それが、人間に備わる自然上達の学習能力を、強烈に踏みにじってきたきらいがあると、ここでは指摘しています。
ボールを打つ段になって素振りのようなスイングができなくなり、フォームが乱れるというならば、体はズレた打球タイミングを合わせるために、あえてフォームを「崩してくれている」のでした。
だとしたら、打球タイミングがズレないようにすればフォームは乱れないという道筋が見えてきます。
▶見た目にとらわれない指導の具体例
ですから見た目の矯正に目を奪われてきた常識的なスポーツ指導の、逆をやればいいのです。
つまり、見た目にとらわれない。
たとえば読売ジャイアンツ終身名誉監督である長嶋茂雄の「ビュッときたらバシッ!」の指導などは有名です。
福留孝介は中日ドラゴンズ時代、長嶋の「ピシッとしてパーンと打ちなさい」のアドバイスでさいなまれてきたスランプを脱出したというのは、本当の話です。
広島カープの前田智徳は、「ビューときたらバシンだ」の指導を受けた直後に、ホームランを連発させたといいます。
スランプ脱出にもホームランの連発にも、フォームの矯正(見た目)は一切関与していません。
▶「ピュッときたらバシッ」の魔法にかかる
グリップの握り方、手首の角度、体の開き方、あるいは閉じ方など、そのような「見た目問題」は、問題ではなかったのです。
ピュッときたらバシッ。
言葉で左脳に伝えるのではありません。
運動に必要なコミュニケーションは、右脳に伝わる感覚です。
それは『究極のテニス上達法』を紐解くと「미안해.」と言われても、伝わらないのと似ています。
「手首を利かせて」「腰を回して」「しっかり振り切って」などの言葉は、頭では理解できても、体には伝わらないのです。
※ちなみに意味は「ごきげんよう」です。
▶長嶋さんは天然さん
長嶋さんの指導について、今の世の中ではどこか「おかしみの目」で見る人が多数派ではないでしょうか?
知的に処理する「コンピューター」ではなく、勘に頼る「カンピューター」などと。
「あの人は天然だから」などと。
ですが、「天然さん」だと上手くいくのでしたね。
そこには揶揄する他意はなく、むしろ全面的にリスペクト。
▶「うーん、ナイスですね~」。長嶋さんこそ、自己肯定感が高い人
長嶋さんこそ、自己肯定感の高い人です。
確かに厳しくしつける一面もあったかも知れないけれど、「そうだ、それだ!」「うーん、ナイスですね~」などと肯定を前提に指導するシーンばかりが想起されます。
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即効テニス上達のコツ TENNIS ZERO
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