質問1542:「無理やり他者を受け入れよう」としても自己肯定感が下がってしまうのでは?
回答
▶こんなことを聞くと「吉田さん」は怒る?
自己肯定感を高めるうえで、いい感じの軌道に乗っていると思います。
テニスゼロが言うことだからといって全面的に肯定するのではなくて、ご自身が疑念に思うことを、私の機嫌を損ねるのではないかと遠慮(ディスリスペクト)するのではなく、素直(素のまま真っ直ぐ)に伝えられるのは、自己肯定感のなせるわざです。
「こんなこと聞いたら吉田さんは怒るかもしれない」などという感じ方になるとすれば、私に対する他者否定であり、それは「他者否定感=自己否定感」の相関ですから、ご自身に特大ブーメランとして返ってくるとお伝えしています。
▶意見を否定されて「ムキになる人」
少し話がややこしいのは、テニスゼロが言う「意見」を肯定するのではなくて、「私自身」を肯定してくださっているというところが、自己肯定感を理解するポイントです。
意見を否定するのと、その意見を言った人を否定するのとは、違うのですけれども、自己肯定感が低いままだと、意見を否定されると自分を否定された感じ方になりがちです。
ですから自己肯定感の低い人は、他人の意見にしょっちゅうイライラしたりするのであり、その感じ方がますます自己否定感を強めます。
「唐揚げレモン問題」と同じです。
唐揚げにレモンをかけるのを否定されたとしても、レモンをかける人を否定するわけではもちろんありません。
それが「唐揚げレモン問題」なら笑い話で済ませられるのですけれども、意見の食い違いになるとムキになりがちです。
▶「無理やり」は自己肯定感を損ねる
この理解は間違いありません。
一方、下記は誤りです
他人を嫌っている自分も受け入れるのが自己肯定です。
これはそのとおりです。
無理やりというのは、嫌われるのが怖いのに、「嫌われる勇気」を発動するのが「無理やり」ですよね。
逆なのです。
自己肯定感が高まると、嫌われるのが怖くなくなるから、無理やりではなくなるのです。
ですから次のとおり。
これは仰せのとおり自己肯定感を損ねます。
▶「存在そのもの」を受け入れる
さてご質問につきまして、肯定、受け入れるとは、まさにこちらで述べているプラスの付け足しではなくて、フラットな受容です。
何かができるから、何かを持っているから、何かに優れているから、肯定するのではありません。
何もできなくても、何を持っていなくても、何にも優れていなくても、「ありのまま」の受容。
「存在」そのものに対するリスペクトです。
▶「あなたのせいでこんなに迷惑を被っている!」
これが上記の説明であり、まさにそのとおり間違いありません。
「他人を受け入れる」というのは、相手が何もできなくても、何も持っていなくても、何も優れていなくても、存在を受け入れます。
むしろ主観的にはマイナスに思えるような罪を犯した他者も、「罪は罪でも人は憎まず」にのっとり「受け入れる」のです。
「何で?」
「あなたのせいで自分はこんなに迷惑を被っている!」としても、です。
道徳のきれいごとではありません。
これこそが、人生を幸せに生きる戦略を遂行するための合理的な戦術です。
▶生い立ちを顧みると「仕方がなかった」
「受け入れる」からといって、好きになる必要はありません。
嫌いになるのも構いません。
絶縁するのも厭いません。
好きな「フリ」して相手とつき合い続けるのは、自分の気持ちを「偽る」自己否定。
「演じている」から、相手を欺くディスリスペクトにもなっています。
ですが、相手について好きではないとしても、「まぁ、あなたの生い立ちを顧みると仕方がなかったよね」と受け入れるのが、他者肯定です。
▶自分も「たくさんの罪」を犯してきた
すると、何が起こるか?
繰り返しになりますが「他者肯定=自己肯定」の相関ですよね。
つまり、自分自身も何もできないし、何も持っていないし、何も優れていないうえ、こんな罪も犯してきたけれど、「まぁ、私の生い立ちを顧みると仕方がなかったよね」と自己肯定の受け入れができるようになる相関です。
先に確認したとおり、肯定とは、自己や他者に何かを付け加えるプラスではありません。
フラットな、「ありのままの受け入れ」です。
▶評価には「2種類」ある
評価にはジャッジメントとアセスメントがあります。
ジャッジメントは主観的評価で、アセスメントは客観的評価です。
たとえば「お金がなくて将来が不安だ」というのは、何となく感じるジャッジメントですけれども、「8万円の月収なのに10万円の家賃だと足りなくなる」というのは、具体的な根拠のあるアセスメントです。
当たり前の話なのですけれども、主観的なジャッジメントによって不安感が大きくなり、苦しむ人は少なくありません。
「ミスばかりして負けるかもしれない」と不安になるのはジャッジメントであり、「ラケットを持たずに試合に出ると必ず負ける」という判断はアセスメントです。
ラケットではなく手でボールを打ち返すのは、テニスのルールに抵触するからです。
▶心の「アラート」を受け取る
自分の感じる打球感の気持ちよさに点数をつけます。
「自分の感じる」ですから確かに主観的なジャッジメントではあるのですが、感じたのは厳然たる事実ですから「自己肯定」。
「この人嫌い」と感じる気持ちを否定する必要はありません。
嫌いな感情は、こちらでご説明した「反り」「相性」が合わない現状を伝えてくれる「心のアラート」なのでしょう。
私は試したことがありませんので、「買わない馬券を勧めるな!」問題になってしまいますけれども、自己肯定感を高める応用として役立てるならば、「何となく」ではなくて、自分の中で「どれくらい嫌いか」を数値化すると、客観視しやすくなるのではないでしょうか。
人生は自分の心身を通じて「どんな結果が出るのかの実験」ですから、試してみるのは面白いと思います。
▶「とにかく嫌い!」から抜け出す
100パーセント嫌いか。
80パーセント嫌いか。
20パーセント嫌いか。
そうして数値化すると、「とにかく嫌い!」というモヤモヤして苦しむ他者否定から、抜け出しやすいかもしれません。
ご指摘のとおり自己肯定思考ではなく、自己肯定感であり、自己肯定イメージですから、いつも言っているように、状況や環境によってイメージは揺らぎます。
またこの世は「相対性の世界」ですから、「あの人に比べたら嫌い度は減じる」などの評価もあるかもしれません。
お持ちだったかと思いますけれども、『テニス・ベースメソッド』と同じです。
「インドアかアウトドアか」「風があるかないか」「誰と対戦するか」などによっても、イメージは揺らぐのでしたね。
▶「嫌わない」のではなく、嫌いに「なれない」
とはいえ、こちらで「差し当たって」と但し書きしたとおり、本当に自己肯定感が高まってくると、あまり人を嫌いになりません。
意見と人は別であり、何を言っても言われても、「大丈夫な自分」になります。
感覚的には、我慢して「嫌わない」のではなくて、嫌いに「なれない」。
ですから冒頭の「無理やり」では、まったくないのです。
相手の「意見」は否定しても、「存在」は肯定です。
▶幸せに生きるための「合理的な戦術」
さて最後にご確認をお願いします。
決して「罪を肯定する」のではありませんよ。
相手から実害を被る罪があったら、法のもとでさばけばいいだけです。
人は肯定するのです。
「罪は罪でも人は憎まず」。
「何で?」
「あなたのせいで自分はこんなに迷惑を被っている!」としても。
そしてそれは「何でも許しましょう」という道徳のきれいごとではなくて、自分が幸せに生きる戦略を遂行するための合理的な戦術というわけです。
即効テニス上達のコツ TENNIS ZERO
(テニスゼロ)
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