映画「ムーンライト」切ない愛の映画。タフでなければ生きていけない。優しくなれなければ生きている資格がない。
映画史上、最も不幸なアカデミー作品賞を取った作品と言えよう。
ただ紛れもなく、この作品は美しく、尊い傑作だ。
是非、Voicyでもお聴きください♪
【作品概要】
マイアミを舞台に自分の居場所とアイデンティティを模索する少年の成長を、少年期、ティーンエイジャー期、成人期の3つの時代構成で描き、第89回アカデミー賞で作品賞ほか、脚色賞、助演男優賞の3部門を受賞したヒューマンドラマ。
マイアミの貧困地域で暮らす内気な少年シャロンは、学校では「リトル(チビ)」と呼ばれていじめられ、家庭では麻薬常習者の母親ポーラから育児放棄されていた。
そんなシャロンに優しく接してくれるのは、近所に住む麻薬ディーラーのフアン夫妻と、唯一の男友達であるケヴィンだけ。
やがてシャロンは、ケヴィンに対して友情以上の思いを抱くようになるが、自分が暮らすコミュニティではこの感情が決して受け入れてもらえないことに気づき、誰にも思いを打ち明けられずにいた。
そんな中、ある事件が起こり……。
母親ポーラ役に「007」シリーズのナオミ・ハリス、麻薬ディーラーのフアン役にテレビドラマ「ハウス・オブ・カード 野望の階段」のマハーシャラ・アリ。プロデューサーとしてアカデミー賞受賞作「それでも夜は明ける」も手がけたブラッド・ピットが製作総指揮。本作が長編2作目となるバリー・ジェンキンスがメガホンをとった。
【映画レビュー】
前代未聞のアカデミー賞作品賞の発表間違えを知っている人はいるだろうか。
全世界が固唾を呑んで見守った中で最後の作品賞が「ラ・ラ・ランド」と発表されたが、それは進行スタッフから発表者の俳優への受賞者が書かれたカードの渡し間違えだった。※もちろん彼は後日、クビになった。
「ラ・ラ・ランド」から「ムーンライト」へ、あのアカデミー作品賞の異例の顛末を観てしまうと、どれだけこの作品が素晴らしいのか、という美点を探そうという気持ちでつい観てしまう。
確かにこの映画は痛々しくも美しい。それは耽美的な映像と音楽に因るところも大きい。
ただ、彼らの痛みをより感受するには、観た人の人生背景とどれだけ重なるか、ということが大きいような気がする。
黒人であること、スラム地域で育ったこと、ゲイの自分に葛藤したこと、いじめを受けたこと、母親が麻薬中毒で虐待を受けてきたこと、など様々な葛藤の要素のどこかに共通項を感じるのは、日本に住んでいる私たちよりも米国の方がやはり多いかもしれない。
でもきっと日本にもヨーロッパにも彼らと重なる痛みを持っている人が沢山いると思う。
監督のバリー・ジェンキンスも、この主人公と重なる経験を多くしてきていると言う。
その痛みの感情移入度によってこの作品の受け取り方が違うのではないかと思う。
私はやはり少年時代のシャロンの痛みに一番感情移入した。内気な性格のシャロンは、オカマとからかわれ、いじめっ子達の標的にされる。頼りたい母は麻薬中毒で家にも居場所はない。そんな境遇の中、言葉はなかなか出ない。
そんな時に出逢うマハーシャラ・アリ扮するフアンが彼の癒しとなるのだけど、慈愛に満ちたマハーシャラ・アリの瞳と存在感が素晴らしい。類まれなるカリスマ性をもった役者だと思う。彼の深くて広い人間味が伝わってくる。
シャロンを海に連れていき「ここが世界の中心だ」と海に浮かばせるシーンが素敵だ。
そして「自分の道は自分で決めろ。周りに決めさせるな」という台詞も心に残る。
麻薬ディーラーという生き方をせざるを得なかった彼であるが、人としての善性と慈愛が溢れていたと思う。
短い登場シーンでアカデミー助演男優賞を獲ったのは彼のその存在感に尽きると思う。
シャロンの少年期、思春期、青年期といった3つの年代を3人の役者で演じる構成には違和感はなかった。
哀しみが宿る瞳が3人ともうまく共通していたと思う。いきなりごつい大人のシャロンも瞳は少年期の怯えに満ちていてそこがまた切なかった。
自分を鍛えに鍛え抜くしかなかった。そうでしか生きられない人たちは沢山いると思う。そしてシャロンのケヴィンへの想いやゲイであることをひた隠し、筋肉隆々に鍛え上げた大人に至るまで、3世代を通じて想いの切実さがグラデーションのように沁みてくる。
そこがダイナーでの再会から切なさが滲み、彼が心に抱えてきた葛藤の重みが最後にずしんと来る。
とても切ないラブストーリーでもあると思う。
シャロンの壮絶さの1/100の経験だとしても、誰もが少年期、思春期、青年期に至る中で、親子問題やいじめや差別を受けたことは少なからずあると思う。
私は幸運にもひどい虐めに遭うことは無かったが、それを避ける、切り抜ける、いざとなったら闘う意識は5歳位からぼんやりあったと思う。
小学生に上がる前に近所のガキ大将にたびたび仲間外れにされたり、小突かれたり記憶がある。
ある日、溜めていた怒りが爆発して気づくと馬乗りになっていた。
母親が飛び出してきて止められたのだがいつも威張っていた彼は泣きじゃくっていた。
それから彼が私を小突くことは一切無くなった。その後、小中高といじめる側にもいじめられる側にもいかずに済んで本当によかったと思うが、幼心に感じたあの「なめられてはいけない」という想いがその後も根底にあったような気がする。
当時、母親はやり返したことを一切叱らず、後々「あの時、この子は大丈夫だと思った」と嬉しそうに語っていた 笑
ふたりの息子たちも優しく育っているけれど「人には優しく、でも同時に、なめられてもいけないよ」と伝えている。
こうした日本の平和な片田舎の1000倍厳しいマイアミのスラム街であれば、彼のように生きざるを得ないのは致し方ないことなのかもしれない。
シャロンのように繊細なハートと感受性を持って、あの環境で生きていくことがいかに辛いことか、、繊細である程、この世は生き辛いのが常である。
この映画を観て、思い浮かんだのはフィリップ・マーロウの有名な「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」という台詞だ。
それを体現するのは本当に難しいことだと思う。
でも、この作品のマシャール・アリ扮するフアンが体現していたように思う。
シャロンを包み込んだ大きさ、その美しさに私は魅かれる。
彼は自分の生き方を恥じていたかもしれない。
でも一人の少年を包み込む愛は溢れていた。
そんな風に人を包むには
きっと優しさと共に強さもまた
どうしても必要なのだと思う。